桃の行方


「花ー!」

 不意に、大声で名前を呼ばれ花は孔明の部屋へ進めていた足を止める。廊下の床張りをぎしぎしと軋む音が大きくなるのを背中に受けながら、花は声のした後方へ振り向いた。

「翼徳さん」

 名前をそっと口にして、花は僅かに頬を持ち上げた。近づいてくる人物、翼徳も花の笑みに呼応するようにして口を大きく開けて笑う。大きな体躯に似合わない子どもじみた笑顔だ。翼徳は歩幅を大きく、花へ近寄ると嬉しそうな笑い声を零す。負けじと笑いかえした花の鼻腔を、ふいに爽やかな匂いがついた。花が視線をさ迷わせ、その匂いの元を探し出そうとするのと同時に、翼徳が両手で端を持ち、広げた布を花へ突き出した。

「花、桃食べる?」
「桃、ですか」

 花の視線が翼徳の持つ広げられた布の元へ落ちる。布の上には大きくたわわに実った桃が、3、4個ほど転がっていた。先ほどの甘い匂いの元はこれだったのか、と花は僅かに頷き、それから翼徳の言葉に甘えるように手を桃へ伸ばす。
 手に取ると、わずかにざらざらとした触感が花の手のひらに伝わった。

「大きいですね。すごい……」
「大きいよな。もう、オレ、ずっと前から大きくなるのを待っていたんだ。小さいときに取っても酸っぱいからさ」

 まるで今まさにすっぱい桃を食べてしまったかのような表情を浮かべ、翼徳は口をすぼめた。きっと、小さく成った桃を我慢できずに食べたことがあるのだろう。翼徳の幼い動作に花は微かに笑みを零した。

「酸っぱいんですか」
「酸っぱいよ。すっごく酸っぱいし、硬い。花は小さい桃、食べちゃ駄目だかんな」

 忠告するように紡がれた言葉を、花は笑い声を零して甘受する。小さい桃を食べる機会はきっと無い。けれど、翼徳の忠告をしっかりと胸に焼き付けるようにして、花は桃に視線を向けた。それに気付いたのだろう、何か勘違いしたのか翼徳は僅かにあせりがちに言葉を紡いだ。

「こ、これは酸っぱくないよ。美味しかったんだ。だから花、心配しなくてもいいからな!」
「心配なんてしてませんよ。じゃあ一つ、貰いますね。ありがとうございます」
「えへへ。どういたしましてー」

 焦りを一転、翼徳が嬉しそうな笑みを浮かべ、それから思い出したように首を傾げた。

「そういえば、花はどっか行くのか? そっち、花の部屋ないよな」
「師匠に呼ばれて、仕事を手伝いに行くんです」
「そっか。花も軍師だもんな」

 大きく首を頷かせる翼徳を見て、花は微苦笑を零す。仕事、といっても書類の振り分け程度しか出来ないのだが、それでもこの世界に残ってからは色々とすることが多く暇なときが無い。孔明に弟子なんだから師匠のお手伝いはしてくれるよね、と呼び出されることが多く、仕事を押し付けられてしまう──というのは若干悪意のある言い方なのかもしれない。
 玄徳が益州を手に入れてから、僅かながらも平和な時間が続いている。自然の要塞である益州を手に入れた玄徳に、孟徳軍と仲謀軍は機を狙うかのように息を潜めていた。この平和がいつまでも続くかはわからないが、それでも花や玄徳軍の兵士達は穏やかな日々を過ごしていた。
 ──ただ、孔明や玄徳には大きな負担がかかっているのだが。

 花は視線をそっと下ろす。自分に出来ることがあるのならば、それを必死でやりとげたい。誰のためにそんな風に必死でやりとげたいのか、と問われれば返答に窮してしまうが、それでも、なぜか使命感めいたものが花の心中にあった。

「──じゃあさ」

 不意に翼徳の声が耳朶を打ち、花は伏せていた瞳を上げる。

「桃、孔明の分も届けてくれよ。オレ、兄いたちにも桃あげたいし……。兄い最近動き回ってるから、捕まえるの時間かかるしさ。駄目?」
「良いですよ。師匠にも渡してきますね。きっと喜ぶと思います」
「へへ。ありがと、花!」

 翼徳の笑みにつられて笑みを浮かべながら、花は広げられた布の上に転がる桃をもうひとつ手に取った。その動作をしっかりと眺めてから、翼徳はますます笑みを濃くしながら、じゃあ、と一言だけ弾んだ声音で零し、次の瞬間には身を翻して廊下を駆けていった。その大きな後姿がやがて見えなくなるまで視線で追い、花は両手に大きな桃を二つ持って孔明の部屋へと足をたゆまずに進めた。

 孔明の部屋の前へ着くと、花は小さく吐息を零した。なぜか僅かに緊張する心を押さえ込み、明瞭な声音で言葉を紡ぐ。

「師匠、花です」
「ああ。うん。入っておいで」

 間髪いれずに返ってきた声音に、花は両手で桃を持ったまま器用に扉を開けた。前を向いた視界に、孔明が卓台の上に詰まれた書簡に目を通しているのがうつった。真剣な面持ちで竹巻を見つめる孔明の邪魔にならないようにと、花はそっと扉を閉める。

「ごめんね、呼び出しちゃって」
「いえ。大丈夫です」

 それなら良いんだけど。小さく含んだような声音を漏らし、孔明が視線を上げる。そうして花の持つ桃に気付いたのだろうか、わずかに目を丸くした。

「桃だ」
「はい。師匠は桃、好きですか?」
「ああ、うん──好き、というか普通、かな。にしても、君、それをどこで──」

 孔明の大きな瞳が猫のように細くなる。何かを考えるように鋭い視線に、花は僅かに居心地悪く身じろいだ。親から怒られる前の子どものように身をすくめ、花は視線を伏せる。何か悪いことでもしたのだろうか。わずかな疑問が胸中を回るのと同時に、孔明のいぶかしげな声音が響いた。

「もしかして、桃の木に登って取ってきた、とかしてないよね?」
「してませんよ」

 予想外の言葉を投げかけられ、花は僅かに表情をしかめて返す。それでも尚、孔明は怪訝そうに花を見つめ、それから視線を動かした。その瞳の向かう先は桃だろうか。一身に見据える視線に、花は先ほどよりも大きな声でしていません、と言葉を零す。

「本当? なんか君ならしそうだと思ったんだけど……。してないなら良いよ」

 卓台へ前のめりになるように座る孔明の元へ歩を進め、花は翼徳から貰った大きな桃を邪魔にならないような場所へと置いた。孔明が目を細め、嬉しそうに唇に笑みを浮かべる。

「良い匂いだ。君が取ってきたわけじゃないってことは、これは誰かから貰ったの?」
「翼徳さんから貰ったんです。兄いたちにも配ってくるとか言ってましたよ。あと、美味しいって」
「そっか。翼徳殿が……」

 孔明は手に持っていた筆を置き、そのまま卓台に置かれた桃を手に取った。骨ばった頑丈そうな指先が、桃の皮をゆっくりと剥ぐ。とたん、爽やかな匂いが室内に広がり、花は僅かに頬を緩ませた。
 孔明が器用に桃の皮を剥ぎ、それを口に運ぶのを見つめ、花は自身の手にあるもう一個の桃へと視線を移した。指先で皮を剥ごうとしても上手く剥がれない。包丁があれば全部の皮を途切れさせずに剥けるのに、と口を窄めながら花は孔明が桃を食べるのを見つめた。幸いにも今はあまりお腹がすいていない。後で食べることにしようと、指先で桃を撫でる。

「はー。お腹空いていたからすごく助かるよ。翼徳殿にお礼を言わなくちゃね」
「お腹空いていたんですか?」
「うん。昨日の夜からずーっとここで仕事をしていたからね。朝議に出た後も仕事詰めだし、ご飯食べる暇が無いんだよ」

 眉をひそめながら紡がれる言葉に、花は僅かに表情を曇らせる。それに気付いたのだろうか、孔明が苦笑を浮かべた。

「何を変な顔をしているの。君のせいじゃないんだからさ」

 朗らかに紡がれた言葉に、先ほどは見過ごしていた僅かな疲労を見つけ、花は視線を落とした。もっと自分に出来ることがあったなら、師匠を手助けすることが出来たのに。僅かな後悔は雪のように胸中へ降り積もり、花の心を静かに沈めていく。

「すみません……」
「だからー、君のせいじゃないんだってば。それよりほら、そんな顔をしている暇があるなら仕事を手伝ってくれないかな。心配して表情を曇らせる弟子より、ボクは師匠のために身を粉にして働く弟子が欲しいなあ」
「頑張ります」

 僅かに早口に、けれど確かな優しさを持って紡がれた言葉に頷いて返す。孔明は花の言葉に笑みを浮かべ、それじゃあいつものように頼むよ、とだけ言葉を零して綺麗に食べた桃を卓台の隅へ置くと、また視線を書簡へと落とした。それを眺めてから、花もいつものように並べられた書簡を種類通りに整備する仕事へと移る。

 静かな時間が過ぎて行った。孔明が目の前の書簡へ目を通し読んだ証としての署名を残すためにさらさらと筆がすべる音が聞こえる以外、静寂が二人の間を埋めていた。
 種類別に並べる、というのも実は根気と集中力が必要な仕事だ。間違った場所に並べてしまうと後の仕事に影響が出るし、その結果僅かな滞りが出てしまえば孔明、ひいては玄徳にまで迷惑がかかってしまう。それを思うと、花は大雑把に仕事をこなすことなど出来なかった。

 整理するまえにいつまでも持っているわけには行かないと、窓辺の枠に置いた桃は風が吹くたびに爽やかな匂いを花の鼻腔へ運んでくる。文字へ目を通し、大体の内容を推測し、種類を分別するという作業で疲弊した脳を、桃の甘い匂いが潤すような気がして、花は窓辺へ桃を置いて良かった、とぼんやりと考えた。

 不意に、静寂を切り裂くような節回しが花の耳朶を突いた。聞いたことのない言葉、けれどそれを紡ぐ声は確実に孔明のものであり、花は書簡へ向けていた視線を孔明へ向けた。
 花の視線に気付いた孔明は言葉を止め、僅かに伸びをしてあくびを零す。

「師匠、さっきのは……」
「ああ。なんか桃を見たら思い出してさ。梁甫の吟──って、知ってるかな」

 わずかに言葉尻を上げた言葉に、花は首を振る。予想内だったのだろう、孔明はそっか、とだけ呟いて瞳を柔らかく細めた。

「簡単に言うと、斉の宰相である晏嬰って人が、二つの桃をつかって三人の勇士を殺しちゃった、ってお話だよ」
「……怖いお話ですね」

 ぽつりと零すように囁かれた言葉に、孔明は驚いたような表情を浮かべた。手を後ろに伸ばしながら、言葉を続ける。

「そうかな。その三人は功績を誇って傍若無人な行動をしていたらしいし、当然の報いとも言えるよ」
「…………」
「君には理解できないかもしれないね。ま、そういうこともあったってこと」

 僅かな苦笑を浮かべ、孔明はそのまま伸ばしていた手を下ろす。それから笑みを浮かべ、指先をつと動かした。指差す先は、花が窓辺に置いた桃だ。

「孔明と花、功績の高い者から桃を食べろ、って、玄徳様に言われたらどうする?」
「え──?」
「桃は一つ。ボクか君しか食べられないんだ。まあ玄徳様はそんな意地悪なことを言わないと思うけどね」
「……私は食べられません。師匠に譲ります」

 孔明の指先が、卓台の上へ伏せられる。そういうと思った。囁くような声音で紡がれ、花はほのかに顔を伏せた。自分がしたわけでもないことを功績のようにたたえられる──。私がしたことじゃないのに。みんな本が教えてくれたのに。花の心中を言葉が回る。僅かな不安が燻るようにして花の胸中を苛み、花は知らず表情を歪めた。

「君は本当に無欲な子だね。幸せになるためには貪欲にならなくちゃいけないよ」

 花の鼓膜を、軽い足音が揺らす。視線を上げると、いつのまにか近寄ってきていたのだろう、孔明の顔が間近にあった。

「それに、ボクが弟子から譲られた桃を食べるとでも思う?」
「それは──」
「食べないよ。食べない」

 黒く大きな瞳に見つめられ、花は言葉を無くす。その瞳の奥にある感情を読み取ろうにも、孔明の感情は奥深くに沈められているようで、花にはわからなかった。
 孔明の整えられた柳眉が垂れる。僅かに柔らかく細められた瞳に、花は何故だか胸の奥で温かな感情が灯るのを感じた。

「まあ、お腹がすごく減っていたら食べるかもしれないけれど」
「どっちなんですか」
「まあまあ。その時々で変わるってことで」

 子どものように舌を出し、視線を逸らしながら紡がれた言葉に、花は頬を唇を突き出す。それを見た孔明が「はは。面白い顔」と言いながら間近から身体を退け、笑う。
 そうして、口元を手で押さえながら小さく、けれど花に聞こえるように言葉の穂を継ぐ。

「それにしてもお腹が空いたなあ。ねえ花、弟子は師匠を心配するべきだと思わない?」
「さっき心配する弟子より仕事をこなす弟子のほうが良いって言っていたじゃないですか……」
「ああ。うん。そうだっけ? まあそれは置いといて、花、ボクはお腹が空いたんだ」
「さっき桃を食べてたじゃないですか……」

 呆れたように言葉を紡ぐと、孔明の瞳が孤を描く。無邪気に見える笑顔は、けれど無邪気から程遠い感情をはらんでいるようにも見えた。

「……ご飯、貰ってきましょうか」
「さすが花。話が早いよ。それじゃあ、頼めるかな」
「わかりました。でも、何も貰えなかったらすみません」
「その時は君が作って持ってきてよ。大丈夫、ボク、胃には自信があるから」

 余り嬉しくない言葉を投げかけられ、花は頬を引きつらせる。文句を言おうと口を開くが、それでも孔明の柔らかな笑顔を見ると、言おうとしていた言葉も喉の奥に張り付いて言葉にならない。
 どうしたんだろう、私。孔明の視線から逃れるように視線を逸らし、花は心中で呟く。疑問の答えは返ってこない。花は小さく息を吐いて、それから、もう一度肯定の言葉を紡ぐ。それを聞いて、猫のように目を細め、嬉しそうに笑った。

「帰ってきたら、また仕事を手伝ってもらってもいいかな」
「はい。もちろんです」
「いやあ、良い弟子を持ててボクは幸せ者だなあ」

 本当にそう思っているのか、思っていないのか、真偽を図りきれない孔明の言葉に苦笑を漏らし、花は部屋の扉へ向かった。扉を静かに開いた花の背中に、孔明の声が飛び込んでくる。

「ボクは君のことを、一番の功績者だと思っているよ。玄徳様や翼徳殿も功績がある。けれど、君はもっと、ずっと前から──頑張っているからね」
「? 師匠?」

 言葉の意図が理解できず、花は振り向く。窓辺から差し込んだ光が孔明の身体を横から照らし、鮮やかな光を室内へ散りばめていた。

「ボクは君に、桃を譲るよ。師匠から弟子へ譲るんだから、当然君は桃を食べるよね」
「──」

 話題が先ほどの梁甫の吟の物へ戻っていることにやっと気付き、花は訝しげな表情を浮かべた。それを知ってか知らずか、孔明は追求を許さないとでもいうように手をひらひらと振る。

「じゃあほら、はやくご飯を取ってきてくれないかな。行ってらっしゃい」
「……はい。行ってきます」

 手を振り返すと、孔明の表情に一筋の悲しみが生まれた。が、それは本当に一瞬のことで花には見止めることが出来なかった。次の瞬間には、いつもの僅かに含んだような笑みを浮かべた表情が浮かんでおり、花は孔明の言葉を胸中で繰り返しながら室内から一歩踏み出した。扉を閉めると同時に、もう一度、孔明の声が花の耳朶を優しく撫でた。

「行ってらっしゃい──」

 何かをあきらめたような声音に、花は振り向いて閉ざされた扉を見つめ、それをさして気にすることもなく孔明へのご飯を貰いに行くために、歩を進めた。


(終わり)

2010/03/30