帰る場所


 子龍が花を迎えに来た日から数日が経った。襄陽の城内は侵入者が来たことをおくびにも出さないかのように静かで、だが僅かな高揚を誰もが抱いている雰囲気があった。
 窓から吹く風は爽やかで、花の肌を冷たく濡らす。花はぼんやりと寝台に仰向けになり、遠くにある天井を見つめていた。ちらりと扉に目を向けても、いつもある人影は無い。囁くような声音も聞こえない。扉の前から見張りの人間が居なくなったのだと気付いたのはつい最近のことだった。

 本の無い自分に意味など無いのかもしれない。本が無ければ何も出来ない。玄徳軍の元へ帰ったとしても何も出来ずに足手まといになってしまうのかもしれない。そう思うと、花は胸の奥が苦しくなるのを感じた。孟徳軍に居たとしても足手まといになりそうなのはわかっていたが、それでも本を取り返すことの出来る機会があるのだから、と子龍の誘いを断ったというのに花の心は深く沈んでいた。

 牢に入れられることもなく、平穏に日々を部屋の中で過ごしていると、とても気が狭くなってくる。寝転んでいても、何をしていても考えるのは本のことばかりだった。本が無ければ帰ることも出来ない。だからしょうがない。ここに残ったのはしょうがない。言い訳じみた言葉ばかりを並べ立てて平静を保つことしか、花には出来なかった。

 不意に、扉の前に人影がさす。花はそれに気付いて横たえていた身体を起こし、扉をじっと見つめた。

「入るぞ」

 不機嫌そうな声音が耳を突き、花は目を開く。肯定の言葉を待つこともなく開け放たれた扉の前に、文若が立っていた。瞳を細め、花を伺うように見ると有無を言わさずに室内へと入り込んでくる。

「文若さん……」
「なんだ。私が入ると何か不都合なことでもあるのか?」

 ため息を落とすように呟いた言葉に、文若は眉間をぴくりと震わせて反応を示す。花は微かに首を振り、それから小さな声で「いえ」とだけ言葉を零した。

「なら良い。それよりも、今日はお前に訊きたいことがあって来た」
「私に、ですか?」
「そうだ」

 重々しく頷くと、文若はそのまま強く言葉を続ける。

「最近、夕餉などをしっかり食べていないと聞いた。丞相が心配されている。何故、食べないんだ」
「……食欲が無いんです。すみません」

 小さく答えると、文若の眉に皴が寄る。答えに納得がいっていないような面持ちで、けれどそれを深く追求することなく文若は小さく鼻を鳴らした。

「私にとってはお前がどうなろうと構わないが、死なれては困る。それに、お前への夕餉や朝餉の食料だって馬鹿にはならん。少なめの量が良いのであれば、侍女にそう告げろ」
「すみません……」
「──まあ良い。それよりも、お前に一つ頼みたいことがある」

 小さな声で紡がれた謝罪をかき消すように、文若は大きなため息を零すと、言葉の穂を継ぐ。頼みたいこと、の言葉に花は僅かに伏し目がちになっていた視線を上げた。強い、見据えるような視線と瞳が合う。

「酒を買いつけてこい。金ならここにある」
「お酒、ですか」
「そうだ。三日後に使うのだが、今になって酒の量が足りないことに気付いたらしく、泣きつかれてな。まったく、どうかしている……」

 数日後に使う、とはどういうことなのだろうか。飲むのだろうか。ぼんやりと考えながら花は文若の言葉に耳をかたむける。文若は小さな声で愚痴を零した後、花に向かって布袋を差し出した。受け取れ、ということなのだろうか。手を伸ばすと、花の手のひらに布袋が置かれた。予想外に重みのあるそれに、花は驚きを隠せず表情に表した。

「これで買い付けてこい。三日後、襄陽の城へ運べと店主に言うのだぞ。言っておくが──」

 文若の瞳が鋭くなる。刃の切っ先を向けられたような、そんな緊張感を覚えながら花は視線を逸らさずに文若を見つめた。

「その金で逃げることは出来ないからな。お前のようなものが関所を力づくで抜けきるとは思えないし、いや、もう逃げられないのか。間者が侵入したという話はあれから聞いていない。お前は玄徳軍から見放されたのか?」
「────」

 見放された、という言葉に花は息を詰まらせる。見放されたわけではない、と答えたくなる感情を必死で押し留め、花はすっと視線を下ろした。
 玄徳軍の皆にはきっともう敵だと思われているであろうことを想像すると、胸中で何かがはじけるような痛みを覚え、花は痛みをこらえるかのように静かに呼吸をした。

「まあ良い、それよりも早く酒を買いつけに行って来い」
「他の人にやらせたほうが良いんじゃないですか。私が行っても……」
「他に手の開いている者が居ないのだ。それとも、お前はこんな簡単な作業さえ出来ないのか」

 布袋へ、花は視線を向ける。しっかりとした重みのあるそれは、きっと硬貨が沢山入っているのだと安易に想像することが出来た。きつく縛られた紐を解き、中をそっと覗き込むと沢山の種類の硬貨があった。

「いろんな種類の硬貨があるんですね」
「どれもちゃんとした価値がある。味見でもさせてもらい、味のいい、きちんとした酒を買って来い」
「お酒、飲んだことないんですけれど……」

 小さな声音で呟くと、文若の額にますますの皴が寄る。

「酒を飲んだことが無い、だと?」

 不機嫌に、そして僅かな疑問を持って紡がれた言葉に花は首を縦に振る。とたん、大きなため息が頭上から聞こえ、花は微かに苦笑を零した。

「酒を飲んだことが無いとはどういうことだ。お前ぐらいの歳ならば飲んだことが無いというのはおかしいだろう」
「私の国では、二十歳以下の人はお酒を飲んじゃいけないんです」
「……お前の国、というのは海をこえた場所にあるという国か」

 囁くような声音で問われ、花は小さく頷いた。文若は思慮するように瞳を細め、手のひらを額にあてた。呆れているようにも見える表情を浮かべ、文若は言葉を漏らす。

「お前の国はおかしいな。本当にあるのか? 嘘をついているのではないか」
「あ、あります、本当です! 本当にあって、海をこえた場所にあって、戦争だって無くて──」

 故郷のことを思い出すと、花の脳裏には友人や家族の姿が思い浮かぶ。帰りたい。ただその言葉だけが同時に胸中へ水泡のように現れて、はじける。胸を突くような痛みを覚えながら、花は必死に言葉を紡いだ。

「幸せな、本当に幸せだったのに……」
「不可思議だな。お前は進んで玄徳軍の下へ入ったのではないのか。その言い方では後悔しているように聞こえる」
「玄徳さんは……」

 進んで、と言うのは間違って居ない。戦を無くすために、玄徳の手助けを出来たら良いと、自分から本を使ったのだから進んで玄徳の下へ入ったことと同じだろう。玄徳には最初に拾ってくれたという恩もあり、その恩を返せたら良いと思っていたのだから。

 花は言葉を詰まらせ、僅かに視線を落とす。後悔をしているかどうかと問われれば、答えに窮してしまう。なんと答えればいいのかわからない、というのが一番花の心情に近かった。

「──帰りたいのか」
「え?」
「玄徳の元ではない。国へ、だ」

 真偽をはかるかのように静かに瞳で見つめられ、花は息をのむ。

「あの……」
「二度は言わん。どっちだ」

 帰りたいか帰りたくないか。嘘をついてもきっと文若は見破るのだろう。見透かすような瞳に、孟徳に見つめられたときと同じような居心地の悪さが花を襲う。
 帰りたいのだろうか。わからない。帰りたいといえば帰りたい。けれど、帰りたくないといえば、帰りたくないのかもしれない。

 数日前、子龍が迎えに来た日に読んだ本には文若が自殺すると書かれていた。それが気になってしょうがない気持ちが、花の心の中にはあった。
 別に関係のないことだと言えば、それまでなのかもしれない。けれど、それでも、花は自分と触れ合った人が死んでしまうという事実が、本の中で行にして一行で淡々と記されていたことに対し衝撃を受けた。出来るならば助けたい。人が誰も死なないようにしたい、とぼんやりとした思いが花の胸中で少しずつ形づくられていくようだった。それは、今もまさに。

「帰りたくは無いです。私に、出来ることがあればしたいから。それが終わった後に、帰りたい、です」
「お前に出来ることなど無いだろう。文字も読めないではないか」
「そ、それでも、探せばきっと見つかるはずです!」

 勢いづいて口にした言葉に、花は視線を逸らす。何を言っているのか、自分でもよくわからなくなってきた。大きな声を出したことに対して僅かな羞恥を覚えながら、花は寝台から立ち上がった。

「ま、まずは、お酒買いに行ってきます」
「──、いや、やはり、いい。それは他の奴にでもやらせる」
「え、でも……」
「探せば見つかる、か……。本当に、文字も読めないくせに、よく言う」

 文若の視線が僅かに揺らぐ。鋭い視線だが、その瞳の奥底に柔らかな感情が潜んでいるような気がして、花は小さく表情を綻ばせた。どうしてか、文若と話していると、花は自身の中に燻る気持ちを明確な形へ変えることが出来るような気がした。

「あの、でも、やります。お酒を買いに行くだけで良いんですよね」
「なら訊くが、この通貨にはどれくらいの価値があるのか、お前にはわかるのか」

 不意に布袋からつまみ出された硬貨に、花は瞳を瞬かせる。美しい紋様が書かれたそれは、小さく文字が書かれており、どこか高級そうな雰囲気を漂わせていた。
 どれくらいの価値。頭の中で言葉を繰り返し、硬貨を凝視するものの、なんと答えれば良いのか花にはわからなかった。

 返答に窮していると、文若の大きなため息が花の耳朶を突いた。心底呆れている、という感情を秘めたようなそれに先ほどの決意が折れそうになる。

「わからないのだろう。そもそも、お前に任せようとしたのが間違いだった。他に手の開いているものを探し、頼むことにする」
「なら、それを私が──」
「もう良い。第一に、お前は捕虜なのだから誰に話しかけても簡単に話など進むまい」

 私が浅はかだった。小さな声で紡がれた言葉に、花は何も言えずに唇をすぼめた。頼まれることは良いが、まさかこのように急に言葉を翻されるなどとは思っても見なかった。
 ──文若さんは本当に物をずけずけと言うというか。孟徳さんとは大違いな気がする。花はそのようなことをぼんやりと考えながら、目の前でしかめられた表情を仰ぎ見る。

「私では、役に立たないんですね」
「──ああ、そうだな。お前は部屋でおとなしくしていろ。まあ、おそらく、三日後には──」

 文若の言葉が詰まる。どこか言いにくそうに文若は瞳を泳がせ、それから考えを振り切るように首を振った。

「丞相のことだからまさかとは思うが……、まあ良い。邪魔をしたな」

 眉をひそめたまま、文若は花に預けていた布袋を手に取った。花の手のひらから重みが消える。そのまま、文若は花へ背を向けると、扉へ向かった。閉められた扉を静かに開く姿は様になっており、とても優雅な動作だった。思わず見とれてしまい、花はほうと息をつく。
 扉を閉める瞬間、文若の冷えた視線が花の姿を捉えた。

「──お前が今、やるべきことは決まっているだろう」
「今、ですか」

 文若は頷き、それから花の表情をうかがうかのようにじっと見つめる。すっと細まった瞳が、僅かに動揺するような光を帯びた。

「そのような顔で居ると、丞相が心配する。その迷惑をこうむるのは私なのだから、お前は早く体調を治すべきだ」

 素早く紡がれた言葉に、けれどどこか気遣うような調子を見つけ、花は微かに表情を柔らかくした。気遣ってくれているのだと、文若の拙い優しさに胸の奥がほんのりと明かりを灯すように暖かくなるのが分かった。

「文若さん、ありがとうございます」
「意味がわからん。何故礼を言う。私ではなく、丞相に言え」

 心底怪訝そうな感情をあらわに、文若は額に皴を刻んだ。それに構わず、花がもう一度礼を述べると、文若の額にますます皴が刻まれる。

「……意味がわからない」

 ため息まじりに紡がれた言葉が花の鼓膜を揺らす。文若はそのまま花から視線を逸らすと、部屋から出て行ってしまった。扉が閉まる乾いた音を耳に、花は文若の僅かな優しさに笑みを零した。


(終わり)

2010/3/31