・・・髄・・・膜・・・腫・・・

2007・01・18 入院


2005年の12月、父の介護や娘の結婚式、そして舅の7回忌法要、おまけに年末の忙しさの中、首から後頭部にかけて「凝る」というのとは少し違うような筋肉の緊張があり、気分が悪くなるくらいのそれに私は脳外科を訪ねたのだった。

そこは近場のY脳外科でかなり混んでいた。
握力、血液検査、身長体重などなど検査してCTを撮っていただいた。
PCに現れた私の脳の切断図は、TVを見てるようだった。
私が見ても解るくらい白く丸いものははっきりとしていた。
先生はしばらく無言で「良性だと思いますがMRIを撮りましょう」と仰った。
「気になるでしょうから、年内に撮りましょう、何方か家族の方とご一緒に来てください」
その時私は、目前に迫る法事のことを考えてた・・・苦笑。
「先生、年内は忙しくてどうしようもありませんので来年よろしくお願いいたします」

家に帰ってそのことを言うと、主人は何も言わない・・(ーー;)・
(ほんとうは・・・そんな大切なこと、後回しにするなって言って欲しかった・・・)
娘は心配して一月の予約日に会社を休んでくれ、付いて行ってくれた。
(私も主人より娘のほうが心強い・・・笑)

MRIの結果(造影剤注入なので)血管のとなりにあり、血管が少し腫瘍に入ってるかな・・・と仰ってた。
「未だ、小さいので半年に一度の割合で様子を見ましょう・・・けれど、こういう場合かなり精神的に参られるので、いつでも心配なことがあればお越しください」とのことだっけれど、私は「半年の期間は私にとっては不安なので三ヶ月毎の検診でお願いします」といった。

それからその2月、父は逝った
その涙も乾かぬ初七日に孫が産まれた。
忙しい!忙しい!でも、心のどこかにいつも気になる髄膜腫!

そして4月、受診に行ってCTを撮った。
この前の若いカッコイイお医者さまは居なくって院長先生だった。
「うぅ〜ん・・・あまり大きくなってないようだし・・・
 大きくなって手術が必要になったらしかるべきところをご紹介しましょう」
だけど私が見た限りでは前のように白くはっきりと写ってないんだよね。
(いい加減なこと言ってるな・・・)

その後、何でだか忘れたけれど孫の話になって、院長先生のお孫さんとわが孫が一週間しか誕生日が違わなくって、
「え?何処で生まれたの?」
「D産婦人科です」
「え?!そう〜!! うちもあそこだったんだよ〜〜〜」
その後変わった名前が多いとか・・・云々・・・・
肝心の髄膜腫についての話に納得いくところはまるっきり無し!
次は7月の検診かぁ・・・(なんか気が重い!)

それからほんとうはあまり他人には言いたくないけれど、この髄膜腫を隠さずに言うことにした。
そうすれば色んな情報を得ることが出来ると思ったからだ。
一番多かったのは何処かの病院で検査をしてもらった方が良いと言うこと。

それから「医者選びのランキング」とかの本を買ったり、もちろんPCでも検索したり、近くの内科医でも病気のことを言って、どこの病院が良いかと相談したりして、H病院に決めたのだった。
HPで外科部長の外来受診の日を調べて出かけていった。
(そりゃ、一番偉い先生に診ていただきたいものね)
「紹介状もありません。私は手術をしていただけるところで病気の経過を看て頂き、それなりの治療をしていただきたいと思って来ました」
外科部長さんは快く受け入れてくださって、CTを撮ってくださり次回のMRIの検査の予約を取って下さった。
CTの結果、やはりY脳外科と同じような見解だった。
今どうこうと急がなくてはならない病ではないけれど血管の傍にあり、急ぐと言えば急いだ方が良いかもしれないということだった。
入院には三週間かかることなどを聞くと仕事や孫のことを考えると私は決断が付かなかった。
外科部長は「ご自分のことを第一に考えましょう・・・・」と親身になってくださり、私は「ハイ」と言った。
「半年だけ様子を診せて頂いて、色々と方法を考えさせてください」と仰り、私は半年後の2007年1月11日に受診予約をした。
その結果如何で手術を受ける決意をしていた。

それから・・・・私は手術後の「もし・・・」に備え後悔のない時間を過ごそうと思った。
クジラに逢いたくて、以前は四国からのホエールウォチングに失敗だったから今度は和歌山和歌山の太地にチャレンジ!
富士登山もどうしても・・・とたった一人でチャレンジ、されどこのどちらの願いも儚く叶わなかった。
ガックリとする反面、来年行けると言うことかも・・・などと思ってもみたり・・・。
ただこの半年間、メル友を初め様々な人に心配をかけ、励ましや助言を頂きどれだけありがたかったか・・・。

2007年1月11日
心を決めてMRIの検査をして診察に行くと、午前中までいらっしゃった外科部長が私の二つ前で急用ができM先生に代わられた。
「ありゃ・・・重要な決断の日なのに・・・」
M先生は最初に
「急用で私に代っていますが、よろしいですか?
 外科部長の日にもう一度予約を取り直しましょうか?」と仰った。
(そんなこといわれても・・・まさか「はい」なんて言えやしないやん・・・)
「いえ・・・・M先生はどう思われますか?」
「私も部長と同じように急ぎませんが早いほうが良いかと思います。
 貴女が一番都合の良いときにされるのが良いでしょう。
 心の準備も、仕事や用事も都合の付くときに手術を合わせましょう」
ほんとうはもう一度外科部長に相談しようかとスッゴク悩んだのだけれど・・・
心の中でもう一人の私が「この先生に縁があるのかもしれないよ」と語りかけてる気がした。
「手術の予約をお願いします」とM先生に頭を下げた。

2007年1月18日
娘に付き添ってもらいH病院に入院。
その日は血液検査やら肺筋力(?)の検査やら簡単なCTやら受けた。
そしたら明日は何も検査は無し、明後日は土曜日で、その次は日曜日で(あたりまえやん)検査はなく、私はスタコラと家に舞い戻った。
病院では話せそうになかったけど、娘に言った。
「お母さんね、もし、もしね。手術に失敗しても今まで幸せだったからね。
 滅多なことはないけれど悔いのない人生だったからね。
 そしてもし障害が残っても、誰のせいでもないからね。
 お母さんが決めたことだからね。
 誰かを責めたり後悔したりしないでね・・・・」
後は笑ってごまかしてしまったけど、こんなこと言ってもしっかり受け止めてくれるのはこの娘だけなんだよなぁ。
泣かずに笑って、そしてしっかり頷いてワタシの不安を拭い去るような眼差しを返してくれる。
(ありがとう・・・)
日曜日姫路美術館に行ったりして、まるで普通の生活をして自分が来週にそんな大きな手術を受ける人間とはどうしても自覚できない・・・。
なんせ、いつだった状況判断のできないワタシなんだもの。
日曜日の夜に送って来てもらって、明日の検査に備え、夕食後の食事制限などを受ける。

2007年1月22日
この日はカテーテル検査で立会いが居るため、息子に病院にきてもらった。
カテーテル検査自体は大そうなことでもないけれど、その後の手術を思ってか息子の顔はさえない。
腕からのカテーテルなので、あの足の苦痛は無い
ワタシはやはりアレルギー体質のようで、あの造影剤に負けたみたい・・・
瞼が少し腫れた!!それも一時間半で消えたけれどね
この造影剤の後二時間は寝てなくっちゃいけなくて、ぼぉ〜〜と点滴を見つめながら過ごす
歩行許可が下りたら、ポカリとお茶とを交互に飲んで、トイレとベットを往復して、早いうちに造影剤の体外排出を決め込んだ。
ただね・・・・点滴をつけたままなもんでトイレに入るときも点滴に繋がれたまま・・・(ーー;)
ドアの前に点滴を置いてドアをそうっと閉めて、もちろん鍵なんてかけられないんだけど、病人ってそれもゆるしてしまうから怖いねぇ

2007年1月23日
今日も造影剤によるMRIとCT。
これもカテーテルほど大したことはないけれど、造影剤によるアレルギーはでた。
時間を計ってたら一時間半ほどでその症状は消えた。

2007年1月24日






30日の手術日が早くなって26日と聞かされた。
今日から外泊しようかと思ってたけれど、また明日来なくっちゃいけないなら今日は大人しく安静にしていようと決めた。
この病室は朝一番に朝日がオハヨウと言ってくれる。

この朝日を親指と人差し指で掴むのが好きだ。
指の間からワタシの瞳の中に入ってくる一筋の光は希望以外のなにものでもない。








2007年1月25日
いよいよ明日は手術。
麻酔科の先生からのお話、手術担当の看護師さんからのお話、ICUの担当の看護師さんとの顔合わせなどなど、ワタシはその誰もの顔を覚えることなど出来なかった。

夕方に主人と共に、外科部長とM先生のお話を聞く。
検査の結果、髄膜腫はかなりいろんなところに癒着してる可能性があり、切除も80%は可能だけれど100%は無理だと言うこと、そして静脈をすでに圧迫しているとのことなど聞いて私は、不安と手術する意義なんてないのかも・・・・とここまできて迷ってしまった。
だけど、今更「やめます」なんて言えないで、俯きがちな顔でお話を聞いてた。
まるで自分にことではないように、遠くで誰かが言ってる人事のように聞こえてた。
そんな表情をみてかM先生は
「これで私は帰りますが、詰め所に自宅の電話番号を知らせておきますので
 不安なことや疑問なところがあれば夜中でもかまいませんからお電話ください」
その優しさにまた励まされ私は他力本願を決めた
「M先生にお任せしよう・・・」

2007年1月26日
昨夜から点滴、朝ごはんは勿論なし。
胃液が出ない薬も服用して9時には家族と共に9時40分を待つ。
話すこともなく夫々に夫々の方を向いてるのが、不自然なのだけれど心が休まる。
こんなときほんとうに話すことなどないよね。
かっきり9時40分にお迎えに来てくださって、手術室には予定通り9時45分着。
それから5分もしない間に麻酔の点滴、オロオロとする間もなく眠りに陥り、おそらく人工呼吸器に切り替えられ、私は私の意志以外のそれで生き延びたというか、生かされたわけで、
「5時20分ですよ」との声で起こされたときに、水中から出たときのように咳き込んだ大きな息をした。
朦朧としたなかで「ワタシの呼吸だ・・・」と思った。
「100%の切除が出来ました」と先生の声。
手術前の検査結果を見ながらの難しそうな先生の眉間皺が脳裏に甦った。
声にならない声で「ありがとうございます」といったけど、その声の終わらぬうちに嘔吐・・・
でも、何も出てくるものもなく周りの看護師さんは動く気配もない(笑)
主人が、娘が・・・兄が・・・・声をかけてくれて、涙が流れた。
心配するであろう母にはこのことは言ってなかったので、手術後に母に伝えてもらう。
8時頃また母や兄嫁さんがきてくれた。
母が泣いたので、私も泣いてしまったけど「後は日にち薬だから」と母を安心させた。
(自分にも言い聞かせてる言葉だった)
すべては終わった!
後は良くなるしか道はない!自分にいつも念じる言葉。
だけど体中の何処からともなく力が集まってその力が私の口から「う〜〜」という言葉になって出て行く。
身体の力をぬこうと細く長い息を「ふ〜〜〜〜〜」とする。
一瞬身体が軽くなり、ほっとする。
それもつかの間・・・・何処からともなく力が集まり身体は硬直し「う〜〜〜」と・・・長い息、長い息と言い聞かせ繰り返す、長い息と硬直との繰り返しを何度繰り返したことだろう
長い長い一日が過ぎました。

2007年1月27日
ICUのベットはいくぶん小さくて、だけど少しは柔らかく・・・
心電図の線やら点滴、酸素量やらマスクやら・・・訳の解らない管に気をつけながら、横を向くとき小さなベッドの柵はありがたい
朝にお水を二口飲んだ
そしてしばらくして痛み止めを飲んだ
この痛み止めは吐き気も治るし関節の痛みや筋肉痛にも優しい
この薬の利いてるしばらくは私らしく周りをキョロキョロしてみたりした。
昔のラジオみたいなのはなにかな〜?
そんな私を観察してる看護師さんはすかさず酸素を外しましょうか?
いえいえ、これは気持ち良いから付けといてください
だって、喉が渇くの嫌だもの。
うつらうつらしては父のこと亡くなってしまったメル友のこと
辛かったであろうスーたんのこと、頭だけがランナーのように駆け巡る
お隣のカーテンの向こうの男性はおしゃべりで、訳のわからない事を言って看護師さんを困らせているみたい。
機械音だけのなか、人の言葉は耳に優しい。
生きてるってことの実感だ。

2007年1月28日


ICU2日め・・・
食事を摂らないと部屋に帰れませんよとか言われて、朝食の為に起き上がるが吐き気が・・・。
痛み止めの後は少し気分が良いので昼食の前に痛み止めを飲んで昼食のお粥を食べた。
おかずにはとても手が行かない。
夜も食事前に痛み止めを飲んだ。
全身に力を入れてたので筋肉痛がひどくって主人に背中を撫でてもらう。
かなり力を入れてるので痛かったけど黙ってた
(これで元気になるぞ・・・・)




2007年1月29日

昨日から窓のあるこのICUに移された
長い夜を彷徨った挙句の朝の窓は素敵だ
緑の針葉樹も新鮮な気がする
酸素も要りませんね〜とか勝手に言いながら
心電装置も酸素濃度の装置も外された。
この日も食事前に痛み止めを飲み、食事に挑む。
考えてみれば、食事の後は必ず歯磨きをさせてくださるし、熱いおしぼりは幾度もいただけるし、清拭も至れり尽くせりだ
なかなか待遇が良いな〜〜などと思った気持ちを知ってか
「もう、病棟に帰られますか?」って・・・・!
「いえ、もう少し居ます」という私の願いも哀しく、朝の10時には一般病棟に放り出されました。
午後、看護学生の実習があるとかで、実習生をひとり担当して欲しいとの申し出があった。
これは私だって娘を持つ母親、二つ返事でOKした。
どんな子が来るのかな〜〜〜た・の・し・み・・・・・(^^)v


病室に帰ってからのワタシはぐんぐん良くなりました。
最初の二日間は点滴を取る為に、食事を食べることに専念!
だってこの点滴ったらホンマ邪魔臭いよ。
時々ピーピーと鳴りだすしさぁ・・・看護学生さんは順調な私の回復がお勉強になるらしくいっぱい書き込んでる。
ただ、血圧を測るとき頭に血が上るくらいキツク締めて、それも長い間測るので腕はしびれるし大変な想いをする。
血圧測定でもこんなだもの、注射などのお勉強だとどうなんだろ・・・・
ちょっと想像すると怖い!




2月2日、暖冬と言ってもこの節分の時期はほんとうに寒い。
病室の中だとわからないけれど、朝起きたら真っ白だった。
携帯でピンロロロ〜〜ンと写メールを撮る。




節分の日、今年はひとりぽっちの節分。
5Fの窓から一人でマメを投げた。
「鬼は外〜〜」
暗闇の中で少しマメの形が見えて闇の中に落ちていった。
そんなこともすべてが希望に繋がる。
鬼の絵に色まで塗ってくださってる方の温かみに感謝




退院の一週間後、父の一周忌に参列することが出来ました。
父の介護の辛かりしとき、父はその死の床で意識の無い中で私を守ってくれたのかもしれない。
「早く病院に行け・・・はやく・・・」と叫び続けてくれたのかもしれない。
その思いが、私の周りの方々の言葉となって私の耳に伝わってきたような不思議な気がする。
2センチくらいの髄膜腫ならなかなか発見は難しいと言う。
父の介護の疲れがあったから病院に行ったわけだし、一周忌にはこんなに元気になって参列できた。
みんなに、みんなに、みんなにありがとう。