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野球バカの親父(19X3年生まれ)です。
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野球を始めたきっかけ |
小学生といったら、外で遊ぶしかありません。私の住んでいる東海地方の田舎では、山や田んぼばかりで外では面白いことがたくさんありました。そんな子供時代の近所のガキは、バットとグローブを持って公園に集合するのが当たり前で、私もその一人でした。
小学生の遊びで覚えた野球センス良い子供は、野球団でも試合に出られる。そんな時代でした。練習なんてグランドがありませんから小学校の校庭で6年生しかできません。当時は低学年の指導なんてなかったと思います。いわゆるボール拾いです。練習している6年生も野球好きのコーチや監督に怒鳴られて、ひたすらノックを受ける練習たっだ記憶があります。もちろん、練習は日曜日にしかできませんので、厳しくするしかなかったのだと思います。
クラスで休み時間や放課後には、みんなでよく野球をやりましたが、体も大きくて足が早かった自分は、野球がうまいと思われていたらしく、えらそうにノックをしたりしてみんなにウンチクをたれていました。今思えば恥ずかしいかぎりです。実は野球はへたくその部類と自身は思っています。本当はおとなしい性格で、内弁慶でした。 |
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中学生の頃 |
小学生から野球を始めた私は、中学でも野球部に入りましたが、男の子供は野球ばかりで遊んでいる連中が集まりますから、レギュラー争いは大変です。私の小学校は児童が1600人のマンモス校で、中学校は3つの小学校から生徒が集まっています。 このころになって「野球がうまくなりたい」と思えるようになりました。足が早かったせいで、それまで右打ちだった私は、当時の監督に両打ちを命じられました。しかし、左打ちは力が入らず、打ってもレフト方向への当たりしか飛ばないし、引っ掛けて自打球となり審判がフェアを宣告して凡打となる悔しい結果が多かったと思います。
実は、足の速かった私は、中学生のころ地元の市内中学が集う陸上記録会の代表選手として、200M走(実はなんでも良かったのですが)の校内選考会でトップとなり出場したのです。見事優勝し当時の大会記録を大幅に上回る新記録を出し、その後、数年間ほど破られなかったのです。 ポジションは、大人しい性格からと友達に遠慮してレフトを守ることとなりました。(本当は実力がない。)先発メンバーで、公式戦には出場したこともありますが、選手層が厚く、いつも2打席で交代となるか、途中出場もあり、準レギュラーといった感覚で主力選手ではありませんでした。態度がでかいバカ選手でした。野球部は当然軟式ボールでしたが、調子に乗って、こっそり硬式ボールで練習したこともありました。今思えば非常に危険でした。
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| 高校生の頃 |
ところが、とりあえず地元の進学校(?)に進んだ私は、1つ上の先輩から野球部の入部の勧誘を受けることになったのです。なぜ? 実は、私の出身中学の野球部からは、その高校に数名しが入学しなかったことと、先輩の勧誘ノルマ、単なる足が速かったことと思います。 高校では、坊主頭にするのがイヤなことと、もともと視力が弱かった(乱視はつらい)こともあり、野球では成功しないなと感じていました。 当時、ドイツ・ブンデスリーガー初の日本人選手で奥寺康彦(後にJリーグのジェフ市原で監督、私は野球でいうドジャースの野茂に匹敵すると思っている。)が脚光を得ており、マラドーナがアルゼンチンユース代表として来日するなど、サッカー人気が盛り上がっていました。バカな私は、サッカー部に入部したのです。その後、ちょつとしたきっかけから、ラグビー部に転部し、ウイングとして一応レギュラーでした。(はっきり言って部員が少ない?) 当時の伏見工業高校の平尾は有名でした。3年次は県大会でベスト4(上位2強が強すぎる。)という、偶然のおまけつき。 |
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