プロローグ 〜 生涯かけての楽園づくりを


 1987年頃から立体の仕事が中心になり、89年ペーターズショップ&ギャラリーで「スマイリング・タイムス」という立体作品の個展を開かせてもらった。飾りつけが終わり一息ついて見渡してみると、なかなか楽しいスペース作りが出来たと自画自賛し、このまま飾っておきたいと思っていた。会場のサイン帳に「こんな部屋だったら、ずーっと居たい」という内容の記帳がいくつかあって素直にうれしかったし、このまま、そっくり保存しておきたいという気持ちがつのっていきました。


 立体で仕事をしている人には理解してもらえると思うのですが、作品の保管には常に頭を悩ませてしまう。仕事場の壁という壁にはオブジェが貼られ、ハエ取り紙のごとく天井には吊るし放題。素材である流木だの鉄くずだのジャンク物はベランダから溢れ出し、打ち合わせの為にはテーブルの上にある物を部屋の片隅に積み上げて、やっとの思いでスペースを確保するという、まるでジグソーパズルのようである。
 一人でやっている家内手工業としては自宅・仕事場以外に部屋を借りられる程の金満家であろうはずもなく、これから先も作り続けるつもりでいるからパンクするのは目に見えている。自然な成りゆきで、もっと広いスペースが欲しいということになる。


 僕が20歳前後で北海道にいる頃、東京、東京と、流行歌の中で歌われ、テレビや映画の画面にも東京が洪水のように溢れかえっていた。僕の中にトカイというものへの憧れが育ち、東京オリンピックが引き金となって第一期バブル時代の幕開けとなり、広告業界、ファッション界、出版業界、ビートルズの来日公演、イラストレーターとして横尾忠則さん、宇野亜喜良さん、和田誠さんたちが華々しくデビューしていて、まばゆいばかりであった。
 イナカモノの僕はトカイ人にならなければとの思いで東京にやって来ました。街をうろつき、ディスコに通い、安保闘争の現場へと足を向け、時々イラストレーションらしきものを描き溜め、東京を吸収しようと躍起になっていたし、早くメディアに登場できる日を夢見ていた。


 気がつけば40歳半ばに達していて、ポスターの制作に関わり、雑誌の表紙をさせてもらい、レコードジャケットの制作、そして単行本に僕のことを書いてもらったり、モデルとして登場させてもらい、東京の嫁をもらい等々、こう書いてくると恥ずかしくもなってくるのだけれど、質はともかく、一応ささやかながらも20歳の頃の夢は達成したのかなと思える。
 このまま流れにまかせて職業的プロとして居続けるのも、腰の座りがよろしくない。東京オリンピック以降の日本が歩んできた道の総仕上げがバブル崩壊であるとしたら、実は僕も同じ道を歩いてきたのだと思う。


 ある時、飲み屋で散々飲んだあげくテーブルにうつ伏せになって寝てしまった。これまで30年近く飲んできたけれど、こんなことはあり得なかった。愕然としてしまった。東京に慣れすぎてしまった。
 そんなこんな日々を送っている頃、打ち合わせの帰り銀座のイエナ書房に立ち寄ってみたところ、全てを払拭すべく一冊の本、ハワード・フィンスターの「パラダイス・ガーデン」と出逢った。アメリカ・ジョージア州で牧師をし、フォーク・アーティストでもある彼が、たった一人で広大な庭に、ジャンク物で寺院・教会・ボトルタワー・天使の像等が溢れかえる庭園を、実にチャーミングに展開している。「こんなのありかョ!」である。
 彼ほどの思想は持ち合わせていないが、スペースの問題解決、生涯かけて次への展開を考えれば、東京からの移住が自然な答えとして導かれることになる。
 「シゲチャンランド」の建設である。


 どうせ東京を離れるならば東京で出来ないことをやるしかない。小さな小屋を散在させ、今までの作品を展示する。大きな物を作りたかったし、農工器具、流木、材木工場の機械類、鹿の骨等、素材には困らない。いくらでもある。この世に存在しない生き物たち1000体ぐらいを北海道の自然の中で展開させる。イメージとしては子供の頃、お祭りといえば必ず見世物小屋やサーカス団がやって来て、恐る恐る引きつけられるように入り口へと導かれた、あんな感じである。
 もちろんイラストレーターとしての仕事も現在の延長線上で続け、あまり計画的でなく思いつきで30年ぐらいのスタンスで、次々と増殖するアメーバのごときランド作りに、50歳からの出発として、人生の仕上げに向けて静かに狂いたいと思っています。

大西 重成

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