バレンタインの話





クッキーなんて、そんなに欲しいもんカ?


「……うー……」
オーブンからはクッキーの焼ける良い香りが漂っている。
普段ならば、お菓子作りをするご褒美といっても良いぐらいの、甘く幸せな香り。
「……うぅぅーん……」
けれど今は、それどころではない。
苦しそうに呻きながら緩慢に立ち上がったフレイは、小窓からオーブンの中を覗き込んだ。
思い描いた通りの色に焼き上がったクッキーたちを手早く取り出し、調理台の上に乗せて一呼吸。
「どうしよう〜……」

昨年の秋はまだ、ダグと付き合っていなくて。
感謝の気持ちとしてクッキーを配ると聞いていたから、お世話になっているセルフィアのみんなにクッキーを配って回っていたのだけれど、「クッキーよりコメが好きだナ」なんてダグが言うものだから、彼には急きょおにぎりを詰め合わせて渡した。(ついでに甘い物が大のニガテなディラスには魚を持って行った。)
今年もディラスには、クッキーでなく魚を渡すつもりだけれど。

『恋人にはクッキーだが!クッキーにはちゃんと意味があるようだ!』
先日の女子会で、シャオパイに力説されたのだ。
メグもクローリカも、力強く同意していたし。
きちんと意味の込められたものならば、フレイ自身もクッキーを渡したいと思う。
「でも、ダグはお米がいいって言ってたし……」
好きなもので喜んで欲しい、という気持ちも捨てられない。
「おにぎりとクッキーを両方渡す、とか……?」
黙ってその様子を想像して、フレイはふるふるっと小さく首を振った。
「……ダメ!なんか、かわいくない」
普段ダグはフレイのことを、女らしくないと認識しているらしい。
別にそれがものすごく不満だということはないし、ダグはそういうところを気に入ってくれているらしいけれどそれでも、たまにはかわいいところも見せたいなんていうオトメゴコロは、もちろんフレイにだってしっかりとあるのだ。
「あ、クッキーをおにぎりの形にする?」
いやいや、それじゃあお米じゃない。
「わかった!ごはんでクッキー作ればいいんだ!」
……ごはんでクッキー?……おにぎりをオーブンで焼く?
それじゃあ焼きおにぎりじゃない?
あ、平たく潰せばいいんじゃない?
……それっておせんべいじゃない?
「あーん、もう!どうしよう!!」



*****



いつもは待ち合わせよりも、下手をすれば30分以上早めに来るフレイが、今日はまったく現れる気配がない。
「19時、だよナ?」
前もって指定されていた時間を、自分が間違っている可能性をまず考える。
ダグは首を捻った。
そもそも、今日はフレイを見かけていない。
こんな日ならば絶対に自分でクッキーを配って歩きそうなのに、彼女のクッキーはマーガレットが自分のものと一緒に配り歩いていた。
曰く、「フレイさんはどうしても抜けられない用があって」。
待ち合わせ場所から見える、フレイのお店から明かりは漏れていない。
「まだ帰ってないのカ?」
今まで彼女が約束に遅れたことはなく、また約束を忘れてしまうというのも考えにくい。
しかも今日は、彼女と恋人になって初めてのバレンタイン。
出来る限り態度に出さないようにはしていたものの、正直言って緊張も期待も膨らみすぎて苦しいぐらい。
自分と同じぐらいとは言わないけれど、フレイの方だって少しぐらいは楽しみにしてくれていると嬉しいと思っているのに。
「……なんかあったのカ?」
約束の時間を10分過ぎただけ。もう少し待ってみてもいいのだけれど。
心配だ。
トントン。広場に面した彼女の部屋の扉を叩く。
返事は無い。
(やっぱ留守カ?)
ところが、試しにノブに手をかけると、あっさりと扉は開いてしまった。
「??……フーレーイーいるのかー……っテ!」
何か、いる。
ベッドに上半身を預けて、床に座り込んでいる……のは、間違いなく彼が求めたフレイの姿。
「フレイ!大丈夫カ!?」
慌てて駆け寄れば、彼女はゆるゆると首を振って上体を起こした。
「んん……」
明かりもついていない薄暗い部屋。ままならない視界ながら、そばにいる人物のことはきっちりと認識できたらしい。
「……え?ダグ?」
「おウ。どうしタ?どっか悪いのカ」
「えええっ!?いっ、今何時!?」
「ヘッ!?ええと、19時、15分ぐらイ?」
「ごめん!私、遅れてっ」
「いや、落ち着けっテ!どこも、悪くないんだナ?」
こくこく、と一生懸命頷くフレイに、まずは安堵する。倒れているのかと思ったが、そうではなかったようだ。
彼女が無事なら何でもいい。少しぐらい遅れたって構わない。
「うぅ……ごめんね、ダグ」
「いいっテ」
床に座り込んだまましゅんと俯くから、眠っていたせいか少し乱れた長いツインテールが床を撫でる。
「ほら、髪、汚れるかラ。立てるカ?」
自身も立ち上がった手を差しのべると、彼女は大人しくそれに手を重ねた。
毎日農作業にいそしんでいる割にしとやかな女性らしい手を、僅かな緊張感とともに柔らかく握って引き上げる。
「ちょっと待っててね」
無事に立ち上がったので離そうとした手に、一瞬だけきゅっと力が籠められて。
(?)
けれどするりと離れた為に、気のせいかと思い直した。
あの手、好きだナ、などと考えながら、今繋いだばかりの手のひらを眺めて小さく笑う。
そこへポンと。
軽い何かが乗せられた。
「あの、バレンタインのクッキー、作ったの……!」
何故か予想より大きく緊張している様子のフレイが、薄暗いままの部屋でダグの目の前に立った。
「そのっ、ダグ、お米がいいって言ってたから、お米で作ったの!食べて、くれる?」
「エッ!?コメデ!?マジカ!!?」
驚いて思わず取り落としそうになった袋を、慌てて掴み直す。
「なかなかうまくいかなくて……、お昼頃にはできたんだけど、そのあと眠っちゃったみたいで。ごめんね?」
「昼ってオマエ……昨日かラ?」
こくり。小さく頷いて、彼女はこちらを恐る恐るといった感じで見つめてくる。
徹夜だなんて不健康なことをした恋人を叱るべきか、それとも自分のためにそこまでしてくれたことを喜ぶべきか。
とりあえず彼女は出来が気になっているようなので、綺麗に結ばれたリボンを解き、中から一枚、口に運んだ。
「……ん、ウマイ!ちゃんとコメの味すル!すげーナ!」
米が好きだというのは、味というより腹持ちの点が大きいのだけれど、それでもこのクッキーは美味しい。
「ホント?良かったあ……」
強張っていた表情を綻ばせ、フレイはほんわりと笑った。
「どうしても、クッキーあげたかったから」
「ありがとナ。すげー嬉しイ」
「うん」
恋人になったとはいえ、普段どうも彼女は鈍くて。記憶がないせいかそれとも元々なのか、恋愛に関して疎すぎる故に悶々とすることも多々あるけれど、それだけに彼女の方からストレートに好意を向けられると、思っていた以上に幸福らしい。
「……そういやフレイ、メシも食ってねーんじゃねーノ?」
「あ、うん、そうだね」
「エート……」
明かりが付いていない状態にも、だいぶ目が慣れてしまった。
それでも、明るくないだけで少しだけ、大胆なことが……出来なくもない。
「ん。ほら。アーン」
「……えっ!?」
目の前のフレイの口元にクッキーを運ぶと、明らかに彼女が狼狽したけれど、そこは気付かないフリをして。
「一コだけだからナ!オレが貰ったんだからナ!オレのもんだからナッ!!」
そう言うと、フレイはふふっと笑って軽く口を開けた。
「ありがと、ダグ」
ぱくり。さく、さく、さく。
差し出されたクッキーを大人しく食べ進めたフレイの唇が、ダグの指先に触れる。
「っ!!」
思わず勢い良く手を引っ込めてしまい、しまっタ、と顔を上げれば、そこには真っ赤に頬を染めているのが暗くても分かってしまう可愛らしい彼女が、もぐもぐと小動物のように口だけを動かしながら俯いていた。
「……っ、明かりっ、明かり、つけようゼ!」
「そ、そうだねっ」
あたふたとベッドサイドの明かりにたどり着いたダグが、それを付けようとした瞬間。
「やっぱり、だめっ」
「へっ?」
フレイの制止が響き渡った。
「今日はもう、寝るから!暗いままでいいよ」
「?????そ、そうカ?んじゃ、オレも帰るワ。クッキーありがとナ」
「うん。おやすみなさい、ダグ。あの……また明日ね」
「おウ。ゆっくり寝ろヨー」

心なしか慌てたようなダグが部屋を出て行ったと同時、フレイはぱふん、とベッドに顔をうずめた。
「びっ……くりしたぁ……」
ダグが、あんな反応するから。
自分まで急にドキドキしてしまった。
この上ハッキリとダグの顔が見えてしまったりしたら、どうすればいいのか。
とりあえず寝よう。眠ってしまえば、きっと大丈夫。
「恋人って大変だね……」
ダグのこと、好きだなあと、その気持ちだけで告白してしまったことに後悔すら浮かんでくる。自分はちゃんと「彼女」になれているんだろうか。
こんな、追い返すように帰してしまって、気を悪くしなかっただろうか。
そう考えながらも、きっと明日会えばいつも通りの笑顔で挨拶してくれるであろう確信があり、それに甘える自分を自覚する。

どうかお願いだから、夢には出てこないでね。

これ以上の寝不足は、さすがに辛いのだから。
そんな願いを唱えながら、それでもフレイはベッドに埋めた顔をなかなか上げることは出来なかった。