纏う風の話





落ちる――。

それが分かったというのに、何も出来なかった。
咄嗟に動いて届く距離でもなかったけれど、とはいえ一歩たりとも動けなかった自分が情けなくなる。
落っこちたりしたら大変ですから、と言って様子を見に来たのに、本当に見ているだけだなんて。
動くどころか声も出ず。背後で追いついてきたブロッサムの「ダグ!!」という悲鳴が聞こえて、私は思わず固く目を瞑りそうになった。
目を瞑り、耳を塞ぐことで最悪の事態から目を逸らしたくなる自分を自覚したその瞬間。
「えっ……」
一陣の風が、地面に向かって一直線に引き寄せられるダグの身体をふわりと包み込んだ。
刹那と言ってもいいほどの短い時間、風は柔らかく彼の周囲を舞うと、そっと地面に下ろして解け散っていく。
「い、今のは……」
呆気に取られているうちに、ブロッサムさんが小走りでダグに駆け寄った。
酷く叱られているダグが、すまンだのごめんなさイだのひたすら謝っている姿をぼんやりと眺めるうちに、ようやく止まりそうだった心臓が動いているのに気が付く。随分と早い鼓動は、いつ打ち始めたんだろう。
謝りつつも未だ文句を口にするダグに、「素直に謝っておいたら?」とぎこちなく笑いかけて、私はその場から逃げだすように竜の間へと駆け込んだ。


柔らかな、風。
本当に一瞬、通りすぎただけのあの風。
それでも確かにあれは――。

主のいない竜の間は、ただ広くて。
「もしかして……ダグを助けてくれたのは……。セルザなの……?」
この広い空間の主である友人に、そっと話しかける。
もちろん答えなど返ってくる筈がない。
それどころか、本当にあれがセルザだったのかどうかだって――彼女はもう、ここにいないのに。
「セルザ……」
彼女がいなくなってから、どれぐらい経っただろう。
誰もいない空間を見つめていると、後ろから人が近付いてきた。
「……フレイ」
かけられた声がいつも通りで、安堵が胸に広がる。私は笑顔を作って振り返った。
「ダグ。……ケガ、しなくて良かった。心臓、止まるかと思ったよ……」
「あ、あア。その……心配かけて悪かっタ」
「うん。ブロッサムさんにたくさん叱られてたみたいだから、私は叱らないでおくね?」
「……サンキュ」
バツの悪そうな表情のまま、ダグは私の隣に並んでくれる。
「アイツに……助けられたナ」
「……」
やっぱり、そうなんだ。
ダグも分かったんだ。やっぱりセルザだったんだね。
「セルザ、どこかで私たちのこと見ててくれてるんだね」
「そうだナ」
「私の……」
言おうとしたことを脳内で反芻すると急に恥ずかしくなって、私は続きを声に出せないまま口を噤んだ。
「ン?」
「ううん、何でも」
ダグが――私の大切な人が、またいなくならなくて良かった。
セルザがいなくなって、ダグまでいなくなったら、もうどうすればいいか分からなくなりそうで。
大切な友人を失った後の私を、ゆっくりと癒し続けてくれている恋人に。
「セルザに、会いたい……」
こんなことを言ったら、困らせるだけだというのに。
ダグは僅かな間の後に、ぽんぽんと私の頭を軽く撫でてくれた。
「そんじゃ、連れ戻そうゼ。はじまりの森にいるんだロ?」
「……え?」
「エ?違うノ?」
「え、ううん、違わない、と思う、けど……」
そんな軽く、と思わなかったわけではない。
レオンさんを助けた時のことを考えれば、はじまりの森から彼女を連れ戻すだなんて途方もないことで。
けれど、何でダメなんダ?とでも言いたげな顔をしたダグに、そんな細かい一切合切をぶつける気にはなれなかった。
「ふふ、そうだね。ありがとう、ダグ」
「……おウ」
もちろん彼だって分かってるんだ。
それがとても、難しいことだと。だってほら。
「……ちゃんと笑ってねーと、心配されるゾ?」
「……うん」
いつもより、数割増しで優しい瞳が、何か言いたげに私を見てるから。
「帰ろっか」
「おう、送ってク。……って、すぐそこだけド」
城内にある自室まで、送ってもらうような危険は万が一にも無いけれど。
自分で言っておきながら、やはり近過ぎるせいかどうしたものかと思案しているらしいダグの手を取る。
「ありがとう、ダグ」
「お、おオ、まかせロ!」
本当にすぐそばの自室まで、ダグに手を引かれて歩く。
この時「連れ戻そう」とそう言ってくれた彼の言葉は、確かに私の中に深く刻み込まれていた。