ホットミルクの話





くつくつ、と小さな音が聞こえて、フレイは一度小鍋を取り上げた。
火をていねいに、ていねいに限界まで弱め、もう一度鍋を乗せる。
沸騰直前のミルクは柔らかな揺れにかき混ぜられながら、白い湯気を立てた。

「寒くなったなあ」

そろそろディラスが小鈴から帰ってくるはず。
雪のちらつく様を、ミルクから立ち上る湯気で曇った窓から眺める。
つい先日までは、紅葉だの、秋の野菜大会だのと盛り上がっていたのに、もうすっかり冬だ。
この寒さの中帰宅するのでは、せっかくお風呂で温まった体も冷えてしまう。
うちにもお風呂が欲しいなあと考えるけれど、残念ながらお湯を調達する当てがない。
「ま、うちはまだマシだよね。メグのところなんかもっと遠いんだし」
そもそも結局夫婦で住まわせてもらっている城に、文句などあるはずもなかった。
「小鈴のお風呂、いつも入浴剤が違ってたりして気持ちいいしね」
うん、と自己完結したところで、そっとキッチンの扉が開かれる。

「フレイ?……どうしたんだ?」
「あ、お帰りディラス」
待ち望んだ人の帰宅に頬を緩ませると、ディラスも小さく笑った。
「一人か?……大きなひとりごとだったな」
「やだ、聞こえた?」
「ああ。入浴剤が何だって?」
「ううん、うちにお風呂があったらいいのになって……ディラス、ちょっとかがんで?」
ディラスは髪を乾かすこともそこそこに帰宅したようで、いつも柔らかなウェーブのかかっている蒼は、しっとりと濡れた状態で強めの波を描いている。
言われるままにすっと上半身をかがめたディラスの頭に、フレイは手を伸ばした。
「雪、ついてるよ」
そっと撫でるだけで、白いひとひらはすっと溶けて消えた。
僅かに冷たかったけれど、その感覚もすぐさま忘れてしまう。
「ああ、ありがとう」
身をかがめたディラスの低く優しい声は、すぐ耳元で響いて。
嬉しくなって、ついでのようにちゅっと軽い音を立て、まだ冷たい頬に口づけると、未だにまったく慣れてくれない夫は勢い良く身を引いて顔を真っ赤に染めた。
「ばっ、おまっ……急にそういうことすんなって……!」
「急じゃなかったらいいの?」
「ちがっ……」
離れてしまったことを少しだけ不満に思いながら、フレイは笑った。
慣れてはくれないけれど、そういうディラスも好きだから。拒否しているわけじゃないのも、分かってるから。
「それより、今日は私がホットミルク作ったんだよ」
褒めて褒めて、とばかり満面の笑みを浮かべて、何ごともなかったかのようにくるりと軽い動きで身を翻すと、鍋からそっとカップへミルクを移す。
毎日使っているこれは、雑貨屋でダグに冷やかされながら買ったお揃いのもの。
買ったばかりの新しいお揃いも嬉しかったけれど、小さな傷や色の掠れなんかで使い慣れた様子が見てとれて、そのことにも幸せを感じられる。
にこにこしながらミルクを注ぎ、ディラスがいつもしてくれるようにふんわりと小さな泡を立てて。自分の分には、蜂蜜も少し。
「ね、一緒に飲もうよ」
カップを二つテーブルに乗せて手招くと、ディラスはやはり乾いていないのが気になっていたのか、タオルで髪を乱暴に拭きながら寄ってきた。
「うまそうだな」
「ディラスの真似して作ったの」
彼は椅子に座ると、丁寧にいただきます、と手を合わせる。
そんな夫を見ながらフレイもこくりと自分の作ったホットミルクに口を付けた。
「……甘い……かも……」
うーん、失敗したかなあ?蜂蜜、多すぎたのかな。
「ディラスは大丈夫?」
「ああ。フレイの持ってくる酪農品はどれも美味いからな」
「そっか。……でもやっぱり、ディラスが作ってくれる方がおいしい」
「そ、そうか?」
「うん」
これは本当に、心から。
料理を褒められれば、やはり練習しているだけあって嬉しいらしい。ディラスは安堵するような笑顔を見せた。
ホットミルクに身体が温められて、ディラスの笑顔に心が温められて。
「……しあわせだね」
呟く声に、ディラスが飲み干したカップを置く、コトリという音が重なった。
「フレイ」
立ち上がった彼に呼ばれて、自然とそちらを見上げる。
ベッドサイドのライトからあふれる柔らかなオレンジ色の光が、くらりと暗く沈んだ。

近付く影に、思わずカップを両手で包んだまま硬直する。
優しく顔を撫でた蒼い髪は、まだ少しだけ冷たかったけれど。
柔らかくて、温かい。
触れた唇は確かに、フレイのホットミルクでぬくもりを取り戻していた。

「……ごちそーさん」

不意打ちに、目も閉じられず。
フレイは自分が今どんな表情をしているかも分からない。
けれど、どんなに人に見せられない顔をしていたとしても。
「こ、これ洗ってくるからなっ、ゆっくり飲んでろ」
こっちを向いてくれそうにはない夫に、見られる心配なんてなさそうだから。

「ディラスぅ、もう一回」
「ばっ……!」
零れる笑顔を抑えることも出来ずにねだってみれば、彼はしばらく口ごもったあと、いつもより少しだけ低く、囁くように呟いた。
「……後でな」
「……うんっ」
蜂蜜を入れすぎたホットミルクを、こくりと飲み干して。
甘さに蕩けて、雪のように溶けてしまいそう。
大きな背中を見つめながら、とろけるような表情で。
フレイはもう一度、「しあわせだよ」と微笑んで両手で頬をきゅっと押さえた。