Kiss





風が強くて、雲が速い。
フレイはベンチに腰かけてぼんやりと、夕闇に薄れる雲の流れを目で追った。
あとは畑の整備を少しして、今日の仕事はおしまい。
強風に煽られるのは誰しも歓迎はしない。しかも高所となれば尚更。
だからなのか、いつもは人の姿が絶えない展望台にも、今日は誰もいなかった。

「誰もいない」と気付くと、一度行っておこうという気持ちになった。
行儀良く両膝を揃えて、さらに重ねて揃えた両手。その指に光る、指輪。

(結婚、したんだよね)

大切な人と、やっと想いが通じ合って。
みんなの願いをひとつ叶えて。
たくさんの人に祝福されて、二人の一番の友人の前で生涯の誓いを交わした。

実感が伴わないというわけではないが、昨日の今日ではどこか夢心地でも仕方がないと思う。
強く風に煽られる髪が邪魔で、フレイは一度立ち上がって髪を押さえた。
天気が悪いわけではないけれど、もう夜も近くそれなりに暗い。明るいうちに来たときほど遠くまで景色は見えなかった。



「ここにいたか」
「あ……」

髪を押さえたまま振り返る。
別に振り返らなくても相手はもちろん分かるのだけれど。

「どうした?今日はもう仕事は終わったか?」
「いえ。少し、休憩してました」

微笑むと、レオンは扇を閉じて隣に立った。
その指に自分の渡した指輪を見とめて、どうしようもなく嬉しくなる。

「ここに来るのは久しぶりだな。……アンタもここには誘ってくれないし」
「そりゃあ……」

出来ることなら、あんな淋しそうな表情、何度も見たくはない。
とても綺麗な景色ですね、と何も考えずに笑った自分を果てなく責めたくなる程度には、「少し淋しい」と言ったレオンを見るのは切なかった。
自分は過去を忘れてしまったけれど、レオンは過去から忘れられてしまった。
誰も、レオンのことを知らない。
レオンがずっと見てきた景色は、もうどこにもない。二度と出会えない。
その寂寥感は、フレイには到底分かることのできない感覚なのだと思う。

自分はこの人の淋しさを、少しでも救うことができるだろうか。
あれ以来、フレイも展望台からの景色を見ることが躊躇われた。この景色を見れば、同時にレオンのあの表情を思い出す。
恋人の頃のフレイでは、その淋しさをすべて受け止めることが出来なかった。恋人でありながら、互いに一歩引いていたせいで、そこまで踏み込むことが出来なかったから。

でも、今は違う。
私はもう、この人を――。

「……この景色、どう感じますか?」
「……そうだな……」

レオンはしばらく黙って風に吹かれていた。
視界はどんどん悪くなり、景色は見えなくなっていく。代わりに空に星が瞬き始めたのが見えた。

「ちょっとさみしく見える」
「そう、ですか……」
「昔からの俺を知る誰にも、俺の愛する可愛い妻を見てもらえないと思うとな」
「え?」

見せたい相手もいたし、見せつけてやりたいヤツもそれなりにいたからな。
そう言ってレオンは軽く笑う。その表情は、以前ほど切なさを帯びてはいなかった。

「その……過去に、戻りたいなーとかは……」

思わず尋ねると、彼はようやくフレイの方に視線を向けた。
柔らかい表情だった。マリアのことが昇華されてからは、時折フレイだけに見せてくれる表情。
何物にも代えがたい愛情を、その視線からだけで受け取れる。

「過去には戻れないし、もし戻れることになったとしても、戻らない。……分かってるんだろ?」

――分かってる。
彼の淋しさも過去もすべてを私が包み込みたい。一人でここから景色を見て、それを再確認したかったけれど。
本当は、彼の声でその言葉を聞くことが出来て、安心した。

「そうですね。すみません」

尋ねなくても、分かっていても、それでも言葉にしてもらえば違う。
自分がそうなのだから、きっとレオンだって――。

「あの……」
「ん?」

いざとなると、勇気が出ない。
でも、私から言葉にしなくちゃ。
星の瞬く夕闇が、フレイから勇気を奪う。この景色を背景に見るレオンには、いつもよりもさらに妖しい魅力があった。

「あのっ!……キス、して、くださ…い……」
「……!」

語尾は小さくなってしまったけれど、肝心なところは聞こえたはず。
少し驚いたレオンの扇の動きが一瞬止まったが、すぐに彼はニヤリと扇を閉じた。

「じゃあ、目を閉じてろ」

その言いつけに、フレイは「う……」と呻いたけれど、レオンの方へ身体を向けて、言葉通りに瞳を閉じる。
長い睫毛がふるふる震える、そこへレオンは唇を落とした。
それから続けてすぐに、唇を重ねる。
結構な期間付き合ったというのに、唇へのキスはまるで禁忌のようで、レオンからされることもなければ、フレイが強請ることもなかった。プロポーズへの返事をした、あの日が二度目のキスだった。
だからこそ今は、ココに欲しい。
そんな願いを、目の前の人は正しく汲んでくれる。

一度触れて、離れて、大きな手で頭をゆっくり撫でられる。
終わりかな、と目を開ければ、レオンは小さく首を振り、空いていた左手でフレイの瞳を覆った。
視界を塞がれて、身体の中心のあたりがとくんと大きく波打った。もう一度。
一度目より少し長く触れて、もう一度離れて。それから、ぎゅっと強めに抱きしめられる。

「レオ……んっ…」

名前を呼びたかったのだけれど、叶わなかった。
三度目はもっと、熱く深くと求められているようで。

「……っ!……ん……ぅ……」

触れるだけでないキスは初めてで、もちろん拒むつもりなどないけれど、違和感に思わず体に力が入る。
身体中を侵食されそうな感覚に、フレイは震える指でレオンの腕を掴んだ。
不快ではない。けれど、力が抜けていくのが、意識まで奪われそうなのが怖くて。

(……!!)
「っつ……!!」

急にレオンが一度、唇を離した。

「……っは…ぁ…レオン……?」

なんとか少しだけ息を整えて見上げると、彼は自分の腕を見てニヤリと笑ったところだった。
表面に薄く、血がにじんでいて。

「あ……!すみませんっ、大丈夫!?」

無意識に爪を立てたのだと気付いて、慌ててフレイが謝罪する。
その髪を優しく撫でて、レオンは今付けられたばかりの傷を見つめた。

「いいんだ。……少しくらい、傷も付けてくれ」
「え?」
「アンタが俺にくれるのは、幸せばかりで……今が夢なのか現実なのか、わからなくなりそうだからな……」
「レオン……」

あなたがこれからずっと、幸せだけに包まれればいい。
それはすべて、現実だから。
きゅっとレオンの両手を握り、一生懸命背伸びして、フレイからもキスを返す。
もちろん、唇に。

「夢なんかじゃないです。ずっと、一緒にいるのが、現実なんですから」

挑むような、それでいて泣きそうな視線に、レオンは笑った。

「そうだな。……っと、雨か」

柔らかく降り出した雨は、フレイが泣いても、もしもレオンが泣いたとしても、涙を隠すだろう。
自分が泣くとすれば、幸せすぎて、だけれど。

「帰るか。家に」
「はいっ!」
「いい返事だ。……ああ、そうだフレイ」
「はい?」

レオンはしまっていた扇を出して優雅に広げると、フレイの耳に唇を寄せた。
展望台の階段。誰からも見えることはないけれど、二人の顔を隠すように扇で覆う。

「……愛してるよ」
「っ!!……知ってますっ……!」

声だけで、身体が震えるほど反応する。
それでも強がった返事に、クッと喉で笑って彼女の小さな手を軽く握り、レオンはもう一段、声を潜めた。

「続きはまた後で、な。……アンタが満足するまで、たっぷりと」
「……!!!」

『たっぷりと』に文字通りたっぷり時間をかけて耳元で囁かれた台詞に、今度こそ言葉を返すことが出来ない。
それでもきっと、拒むことなど考えられないから。
負けずにたくさん幸せを贈ろうと、それだけを心に決めて、フレイはぎゅっとレオンの手を握り返した。