魅惑の蒼





「レオンさん、こんにちはー・・・っと・・・」

トントン、と軽くノックをして、レオンの部屋の扉を開く。
気を遣わなくても好きに開けていいから、と言われて以来、ノックこそするものの返事を待つことはしなくなっていた。
何故ならレオンが、中に居ても返事をしてくれなくなったから。
「好きに開けていいと言っただろう?」
それが彼の言い分なのだからしょうがない。

いつも彼が部屋に居る時にはたいてい机に向かっているのだが、今日は視線をまず向けたそこが空白だったため、フレイは一度立ち止まった。

「・・・いないんだ」

普段なら、レオンが出かけている時には、ここまで来る前にリンファかシャオパイが教えてくれる。今日は二人とも気付かなかったようだ。
彼がいないのならば、ここにいてもしょうがない。
すぐに踵を返そうとしたフレイはふと、机の上のカップに目をとめた。
何の変哲もない白いカップに、まだほわりと湯気が残っている。外が寒かったので、冷えた手を少しだけ温めたいな、そう思った。
頼まれた布を持ってきただけだし置いて帰ってもいいのだけれど、そこはまあ、大好きな恋人に会いたい、という乙女心。

「・・・ちょっとだけ、お邪魔しまーす」

主の留守に部屋に入り込むことには罪悪感もあったが、とにかく寒い。
飲みかけのカップを置きっぱなしで部屋を出たということは、すぐに帰ってくるのではないだろうかという期待もあった。
冷えが引くまでだけ、少し待ってみて、レオンが帰ってこなければすぐに出よう。
そう勝手に決めて、フレイは後ろ手にそっと扉を閉めた。

レオンの部屋に入ること自体は慣れているけれど、レオンがいない時に入るのは初めてだ。
以前贈った時計や絵が、すぐに目に入るところに飾られている。相変わらずお金も枕元にあるし、ペアグラスも小さな棚にしまってあった。
今度は何を贈ろうか。彼の周りに自分に関わるものが増えていくのが嬉しい。
ティーカップ、よく使うなら作ってみようかな。もらってくれるかな。
そこまで考えて、最初に目をとめた白いカップに手を伸ばす。

「あったかーい・・・」

両手で包み込むと、失った温度を取り戻すように急速に、カップから手へとぬくもりが吸い込まれる。
ついでに、柔らかな中にかすかに爽やかさの混じった、心地よい香りを吸い込む。
おいしそうなお茶の香りに、少し飲んでみたいなーなどと思いつつ、一度は自分を諌めた。
けれど。

「レオンさんの飲んでた、お茶」

白いカップに浮かぶ、薄紅い水の色を見つめる。
一口ぐらいなら。
――正直、それほどお茶が飲みたい!というわけではないけれど。
一口だけ。

フレイは白いカップに、ゆっくりと口を付けた。






「あ」

マズイ、と反射的にカップを置いた。
良かった。あと少し遅ければ、きっと取り落していただろう。
喉が熱い。手が震える。思うように動かない。
しまったなあ、と反省した。どうして思い至らなかったのだろう。

毒だ。

もちろん、レオンにとっては好物である。まさか誰かが勝手に飲むなんて思ってもいなかっただろう。悪いのは完全に、自分。

(薬・・・あったよね、ポーチに)

あるのは分かっているのだけれど、手をポーチまで持っていくことが出来ない。
ぴりぴりと頭が痺れるように痛くて、フレイは思わずその場に座りこんだ。




「――フレイ!?」

(あ・・・)

部屋の主が帰ってきたのは、ちょうどそのタイミングだった。
そちらを見ることも、声を出すことすら辛くて、けれどなんとか椅子の背に縋って立ち上がろうとするフレイに、レオンはすぐさま駆け寄った。

「どうしたんだ?何が――」

しかしその症状で大方のことを悟ったらしい。

「・・・アンタ、これを飲んだのか?」

軽いため息。フレイからの返事は無いが、苦しそうな息遣いと力の入っていない熱い体。答えは明白だった。

「まったく・・・。薬は持っているのか?」
「ぽ・・・ちに・・・」

なんとか呟くと、レオンは彼女をしっかりと抱きとめたまま腰のポーチを探り、すぐに目的の薬を取り出して、その蓋を開けた。
一度瓶を机に置いてフレイを横抱きにすると、その口に瓶を近づける。フレイも薬を飲むために、薄く口を開いた。

「・・・・・・」
「??」

少し待ったが飲ませてくれる気配がない。と思えばハア、と再びため息を吐かれ、(そりゃ呆れるよね)とフレイは自分の浅はかな行動を後悔したがあとの祭りというものだ。
やがて「飲めるか?」と流しこまれた液体は、しかしうまく飲み込むことができずに唇から零れていった。

「しょうがないな。少し我慢してくれ」

自分の体の感覚がしっかりと把握できず、どうすればいいかわからないフレイの上半身をもう一度抱き起こすと、レオンはそのまま薬を呷った。
何を、と考える間もなく、その唇がフレイに重ねられる。
一瞬驚いたものの、とにかく彼に従わなければと、フレイはゆっくりと口内に注がれる薬を喉へと落とすことに集中した。

少しずつ、少しずつ。
苦しくなった頃に唇が離れ、しかしもう一度レオンは薬を呷って口付ける。
ゆっくり、ゆっくり。

さすが即効性の解毒薬で、少量ずつとはいえ体内に取りこんだおかげで、すぐに感覚は戻ってきた。
もう一人で飲めるはず――だけれど、フレイは大人しく流しこまれる薬を嚥下し続ける。何故か「もういいです」とは言えなかった。
温かなその唇と、時折自分の唇に触れる舌に、体がピクンと跳ねる。いつの間にか動くようになった手を、彼の胸のあたりでぎゅっと握った。彼女の頭を支えるレオンの手に、僅かに力がこめられた気がした。
やがて、気付いた時にはもう薬は流しこまれていなくて。

(あれ・・・ど、どうしよう・・・?)

フレイが我に返ったことが分かったのだろう、レオンはすぐに離れた。

「満足したか?随分長く求めたな」

意地悪な光がフレイを射抜く。

「も・・・求めたって・・・」
「やめて欲しくないみたいだったからな?」
「なっ・・・そっ・・・、・・・!」

その言葉は確かに間違っておらず、否定にも力が入らなくて、言葉にならない何かをもごもごと呟くしかない。

「前に話しただろう。それはチャームブルーを煎じたものだ。まあ、少しアレンジして毒性を強くしてあるが」
「う・・・勝手に飲んだりして、すみません・・・」
「本当だ。危うく俺の部屋で人が死ぬところだった」
「うぅ・・・」

あまり怒っているようではなくて、フレイの反応を楽しんでいるだけに見えるから、怯えているわけではないけれど、もう返す言葉もない。
呻くことしかできないフレイの頭をぽんぽんと撫でて、レオンはカップに残ったお茶を一気に飲み干した。

「第一、これは俺の飲みかけだっただろう。気付かなかったのか?」

同性同士ってわけじゃないんだから、感心しないな。もちろん俺は構わないが。
いつも通りの軽い調子の台詞に僅かに含まれた棘は、考えなしに口を付けたフレイへの牽制だろうか。
だから、ようやくフレイは口を開いた。

「・・・分かってました」
「・・・ん?」
「だからっ、知ってて飲んだんです!レオンさんのって!」

他の人だったらそんなことしません、という意味合いを言外にこめて。

「毒なのは気付かなかったですけど・・・って、レオンさん?」

時折見られる、レオンの驚いた表情は、大人びて見える普段に比べれば年相応のようで――こんなこと言ったら叱られそうだけど――カワイイ。
反応がなくなったので、首を傾げて見上げると、「あー、なるほどな・・・」と呟くレオンと目が合った。

「顔真っ赤ですよ・・・」
「うるさい」
「そんなにうるさくしてないですけど・・・」
「じゃあ、そうだな・・・」

考える素振りを見せて、レオンはフレイにぐっと近づいた。
フレイは急なことに動けないまま、耳に寄せられる唇に身を固くする。耳から全身に響くのは、囁くくせに体中を巡る、普段より僅かに低い、声。

「・・・可愛すぎる」
「な・・・なんですかそれ・・・もう・・・」

冗談だ、って言ってくれないかな、と期待したけれど、彼は今日に限ってそれを口にしそうになかった。

そのまま体を離したレオンは扇を開いてパタパタとあおぎながら、「キスしたいならしたいと、言えばいいのに」などとニヤニヤ笑うから。

「れっ、レオンさんのばかっ」

手近にあった布の束を思いっきり投げつけて、フレイはバタバタと部屋を出ていった。
あ、依頼の布を投げつけちゃったな、と気付いたのは旅館を出てから。

まあ、投げたぐらいで破れたりはしないだろう。今日は早く帰って眠ってしまおう。
――この顔で、誰にも会わないように。
見なくても自分でわかる、赤く染まった頬を隠すように、とにかく城までダッシュ。





「・・・まったく・・・」

何もかも忘れたくなる、恋人のあまりの可愛らしさにレオンは息を吐いた。
投げつけられたのは頼んでいた布らしい。
正直、出ていってくれて助かった。あのまま居られては、こちらの身が持たない。
あんな風に求められたら、応えたくなる。
求められずとも欲しているのに、酷なことだ。
恋人なのだからキスぐらい構わないかとも考えた。けれどひとつ許してしまえば、そこからすべてを許してしまいたくなる。
キスもしてくれない、と思われてもしょうがない。彼女はどんな想いでカップに口を付けたのだろう――自分に対して素直に求めることはせず――。

どうすればいいのか、それはレオンが決めるべきことなのに、彼女に流されてしまいたい。
しがみつくようにして無意識にキスを求めた大切な恋人の姿は、たとえ手に入れることを許されないとしても、二度と忘れられそうにはなかった。