僅かな雪は とうに溶けて流れて
海を巡って空へと戻り
咲いた花へと落ちたのだろう

雨が降り 風が吹き抜け
つばめが南へ 戻っていった




  つ ば め




グラとアカネイアの国境すぐにある、メニディ家の私邸。
初めて訪れたその屋敷は、屋敷というよりはもはや「城」と呼んでも差し支えない。
一階に一部屋、二階に一部屋、かろうじて二階建ての自宅を思い出して、は不安げに周囲を見回した。
部屋まで案内されてきたはいいが、一度廊下に出てしまえばどの部屋の扉も同じように見えて、開いた扉のノブを手放したことを今更後悔した。
もう元の部屋に戻ることは不可能だろう。
日当たりの良いその通路は、眩しく熱く。
目を閉じたくなる。

いつも通り。きりりと背を伸ばして。
なにごともないような、迷っているなどと微塵も見せない平気な顔で。
困っているのだけれど、深く彼女を知らなければきっとそうは見えない。
そう、いつも通りの顔で、は陽の当たる窓際を歩き続ける。
「・・・・・・」
曲がり角近くで、は一度足を止めた。窓から下を見下ろしてみる。
庭の木々は軽く風に吹かれてそよいでいる。鳥は飛んでいるが、他に動くものは特に見当たらなかった。
同時に、曲がり角の向こう側からカツカツと足音が聞こえて、自然な動きで地上から目を離すとそちらへ向かってまた歩き出す。
ちょうど自分が角を曲がったのと、足音の人物が立ち止まったのは同時だった。
もしかしたら、こちらのことを窺っていたのかもしれない。
はほほえんで顔を上げた。
「何故わざわざ私の前を塞ぐのですか」
「立ち止まらせたかったから、か」
流れる金の髪。アリティアでは珍しいこの光を、数か月ぶりに目にした。
「久しぶりだな、
彼が軽く笑った拍子に、その背で結ばれた赤い結い紐が跳ねる。
「はい、お久しぶりです。お元気そうで何よりです」
は微笑を浮かべたまま軽く会釈した。
彼女の目の前の美しいひとも、嬉しそうな笑顔を見せる。
「お前は、変わりないようだな」
頬にかけようと伸ばした手から、が慌てて一歩身を引いた。
が、すぐに失敗したと思ったらしく、すみません、と顔を上げる。
ジョルジュは気にした風ではなく、やはり笑った。逃げられたというのに、どちらかといえば嬉々として。
今日の彼は良く笑う。
「相変わらずだ」
見かけるたびに迷っているところまで、変わりないな。
呟いて、それからジョルジュは彼女の頭を軽く撫でた。
「悪いが、少し着替えてくる。もう少し迷っていてくれ」
「えっ、あ、はい・・・」
その指示はどうかと思うが、頷くよりほかにない。
着替えると言われれば、ついていって見ているわけにもいかないだろう。
「すぐにお前に会いたくて、部屋にも寄らずに来てしまったからな」
一片のためらいもなく口に出されて、は答えに詰まる。
「・・・そうやって浮名を流してらっしゃったんですね・・・」
流れるように恥ずかしい台詞(にとっては)を口にするものだから、俯いたまま頑張ってなんとか絞り出した返事がこれだ。
こうやって些細なことで赤くなる、彼女を見るのも久しぶり。
ジョルジュは僅かに腰を屈めてを覗き込むと、その額にさらりと口付けた。
途端にばっと勢いよく顔を上げた愛しい人から目を逸らさずに、笑う。
「お前にだけだ」

いつも通り。自然に、流れるように。
なにごともないような、いつでも何かしら楽しみをさがしているような。
しかし深く彼を知らなければ、それは愁いを湛えた謎めいた表情。
そう、いつも通りの顔で、ジョルジュはの隣をすっと通り抜けて、今がちょうど通ってきた日当たりの良い通路を歩いて行く。
は振り返ってその後姿を眺めることもなく、ただ遮る者のいなくなった進行方向へまた歩き出した。
恥ずかしすぎて、振り返るどころではなかったから。



一人で駄目なことは無い。周りには弟子も友人も、自分を助けてくれるたくさんの人間もいる。
それでも普段はいつもアカネイアという国の為に、有力貴族のトップの責務として、どこか「団長に相応しい自分」を作り上げている。
けれど彼女は、特別なことなど何一つない素直さで、羽根のようにふわりとそれを溶かしてしまう。
久しぶりに会う恋人は、やはり変わりなく真っ直ぐだった。


 ◇◆◇◆◇


約束通り迎えに来たジョルジュに連れられて、は最初に通された部屋へと戻ってきた。
小さな荷物を少し手に持って、再び部屋を出る。
「もういいのか?」
「はい。お手数おかけいたしました。あの、これを」
忘れないうちにと、小さな荷物の中からさらに小さな小さな包みを取り出して、半ば押しつけるように差し出すと、これは予想していなかったらしくジョルジュは少し目を見開いてそれを受け取った。
が待っているようなので中を開けば、しっとりとした素材の白い結い紐が入れてあった。
「何が良いか分からなくて」
早口で、言い訳するようにそう言って、彼女はさらにもう一つ、小さな包みを取り出した。
「あの・・・良かったら、これをつけていただけませんか?」
「ん?」
差し出されたのは、見覚えのある髪飾り。
「・・・オレがか?」
「私にですっ!」
「ははっ、分かっているさ」
以前、可愛いものが好きだと知ってジョルジュが彼女に贈った髪飾りが、今彼女の手の中にあった。
の髪と同じ色の石のついた、控え目ながら可愛らしいもので、改めてそれを差し出されてから見てみれば、今日の彼女はこの髪飾りに合わせた服装をしているように見えた。
受け取って彼女の髪にそっと差す。
「いただいた時に、お礼をしていなかったので・・・ありがとうございました」
ははにかんで、少し小声で続けた。
「嬉しかったです」
「それは良かった」
やはり彼女に良く似合う。
ジョルジュは手を伸ばした。今度はも逃げなかった。
もっとも、壁を背にして立つ彼女に、逃げ場など無いのだけれど。
しばらく抱きしめてから、ちょうどいいので抱き上げて、そのまま元の部屋へ入れば、は慌てたように身を捩った。
「ジョルジュ殿?」
「ん?」
「どこに・・・」
「そうだな」
幾度か読み返したからの手紙を思い出して、ジョルジュはくくっと笑った。
ベッドの上に彼女を下ろせば、さすがに今度は彼女もあとずさる。
「お前の声を聞かせてもらうか」
「え、あのっ」
「ついでにオレに触りたいだけ触るといい」
「や、ええと、あの、そういう意味では、」
笑みを深くして、自分もベッドに腰掛ける。
「分かってはいるが、誤解されかねない文面だったな」
「そうですか・・・あ、でも、その、まだ」
もごもごと色々呟きながら、は助けを求めるように髪飾りに触れた。
戦っている間はあれほど強かったのに、今目の前にいるのは本当に、ただ可愛らしい恋人。
助けを求める相手が間違っているんじゃないかと思いながら、ジョルジュは髪飾りから離れないの手に優しく触れた。
「まあ、もう少し待ってやろう」
少しは覚悟していたのだろうか。は驚いたように顔を上げた。
「ほら」
もう片方の手を差し出せば、その意図が掴めずに首を傾げるので、そのまま抱き寄せた。
ここまできて我慢するとは、我ながらなかなかの精神力だ。
腕の中で大人しくしているの、声が聞きたいな、と思ったところで、彼女が弾かれたように顔を上げた。
危うく顎にぶつかりそうになって、慌てて避ける。
「あの、そうっ、つばめ!」
「ああ、手紙に書いてあったな」
「つばめは、今年巣をつくったところに、来年も戻ってくるそうです!ですから・・・ええと・・・あ、でも・・・」
勢い良く上げた顔が、ジョルジュとあまりに距離が近かったので、は再び俯いた。少し悩んで、元通り大人しく腕の中におさまる。
来年は、一緒に見られればいいですね、と。
そう言いたいのだろう。ちゃんと伝わる。
ジョルジュは笑った。
「そうだな」
返事は一言だったけれど、言いたいことが伝わったのだと分かっては安心して自分の身体を温かな腕に預けた。


抱きしめて、口付けて、身体を繋ぐ
そんな夜はもう少しだけ 待って
今はただゆったりと、朱い空に包まれながら
優しい時間もいいでしょう


片腕でを捕らえたまま、ジョルジュはもう片手で器用に、貰った白の結い紐を自分の髪に軽く結んだ。開いた窓から暖かな風が二人の間を吹き抜けて、さらさらと新しい結い紐を揺らす。
「さて、いつまで待ってやれるか」
ジョルジュの呟きに、はびくりと身を縮めたが、それでも彼から離れようとはしなかった。



心地よい
しあわせのとき
今はただゆったりと、朱い空に溶け込みながら

優しい時間もいいでしょう