恋 情





「ああ、来たか」
ジョルジュはすぐに彼女を部屋に招き入れた。
あの3人の元に忘れ物を置いて行けば、まず間違いなくが届けに来るだろうことは簡単に予想できた。
忘れ物と言っても、自分のサインだけを書いた白紙を混ぜ込んだだけだ。けれど聡いマルス王子ならば、その無言のメッセージに気付くだろうとも思っていた。
「持ってきたんだろう?」
ペンを置いて片手を差し出すと、彼女は慌てて預かってきた紙を渡しに近寄ってきた。
中をちらりと確認すれば、そこには自分のサインの下に、書き加えられた王子の自筆のサイン。白紙の意図に気付いた、という返答なのだろう。
小さく笑って、ジョルジュはそれを机上の書類の一番上へ重ねて置いた。

「それで、どうしたのか聞いてもいいのか?」
「え?」
「昼間は随分と暗かっただろう。・・・これでも弓兵だからな、目はいいんだ」
は驚いて顔を上げ、こちらに大きな瞳を向けた。
無理に聞き出そうと思っているわけではない。ただその様子が尋常では無かったから。それに、ここ数日話していなかったから。
それで呼び寄せてみただけだ。話せないならそれでも構わなかった。
けれど彼女は、話すのをためらっているというよりは、音を乗せる言葉を選んで悩んでいるように見える。だからジョルジュは黙って待った。
やがては小さくひとつ頷いて、意を決したように真っ直ぐにこちらを見つめて口を開いた。
「・・・考えて、いました。ハーディン皇帝の最期の言葉」
あの時か。まだ三日しか経っていないというのに、随分前のことのようにも思える、皇帝の死。ジョルジュも確かに傍に居て、その言葉を聞いていた。
ニーナ王女への、愛の言葉。死の間際、彼女のことだけを考えていた。
「私は今まで、マルス様の剣となることだけを考えて生きてきました。騎士に、人を愛する必要など無いと思っていました。けれど・・・今は、分かりません」
の言葉は、目の前の自分に話しかけながら、彼女の中で思考を整理しているようでもあった。
「まだ私は、恋を知りません。愛するということを知りません。それでも、まだ手遅れで無いのなら、向き合ってみたい。しっかりと考えてみたいのです。私は、人のこころが分からないままで居たくない」
戦争にこころなど必要ない。騎士など、人を殺していくものだ。
愛など知らない方が、楽に生きていける。
けれど、この戦いが終わって平和な世界が訪れるのだとしたら。彼女が愛を知ることは必要なことなのだと、ジョルジュは知っている。
それは人として、そしてマルス王の側近として、確かに必要なものだ。
黙ったまま続く言葉を待っていると、彼女は一度目を伏せた。
目だけをこちらへ向けて、ジョルジュと目が合うともう一度、ぱっと伏せる。
その仕草が妙に可愛らしくて、厳しいままだった表情を緩めると、は少しだけ安心したようだった。
「だから・・・私にあと少しだけ、時間をいただけませんか?」
珍しく、何のことだか急には思い当たらず、ジョルジュが答えられずにいると、彼女は慌てて続けた。
「その、私があなたの言葉を、間違って受け取っていなければ・・・ですが」
それだけ言ってしゅんと下を向いてしまったに、ようやく彼女の言う意味がわかる。そういうことか、と。
やはり彼は小さくだが笑ってしまった。
「今まで待ったんだ。お前がようやくそのつもりになったというなら、断る理由は無い」
自分のあの卑怯な告白に、律儀なことに、答えを返してくれるらしい。
あんなもの、「理由は好きに思っておけ」とまで言ったのだから、無かったことにして忘れてくれても構わないというのに。
ただ彼女が生き延びてくれればそれで良かった。
戦いが終わっても自分の心が彼女に向かうなら、その時は今までのようにアリティアを訪れて、ゆっくりとちょっかいをかければいい、ぐらいに思っていた。
そんな自分にも彼女は、ただただ真っ直ぐなのだ。
「ありがとうございます。・・・あなたは今まで、私に気を遣ってくださっていたのでしょう?私がまともに愛を知ろうとしなかったから」
一線を引いていたことは確かだ。
必要以上に刺激を与えないように。マルス王子を守る、という彼女の使命に、揺らぎを与えないように。
肯定はしなかったけれど、浮かべた笑みに、彼女は自分の想像が間違っていなかったことを確信したらしく。
「でも、もう大丈夫です。どうか、遠慮なさらないでください」
そう言って。微笑んだ。柔らかく明るく、咲き綻んだ笑顔に、思わず息を飲む。
「私はあなたに、笑って欲しい」

それは、恋では無いのだろうか。彼女は真面目に考えすぎる。
一体どうすれば、彼女の中では恋になるのか。
遠慮はいらないと言うが、自分が遠慮しなければ、彼女は恋や愛と向き合う余裕など無く、恋の底に突き落とされてしまうだろう。
期待などしていなかった筈が、笑顔に引き寄せられるように名前を呼んだ。

「はい?」
言いたいことは言ったらしい。踵を返して退室しようとした彼女が振り返る。
ジョルジュは机越しにその手を掴んだ。
軽く握っただけのの指先は、自分よりも少し暖かい。
「恋なんてものは、人によってまったく違う。だが、もしオレの話が何かの足しになるかもしれないと思うなら、聞いて行くといい」
「はい・・・」
手を握って離さないくせにその台詞は無いだろう、と自分では思うのだが、それでも離すことは出来ない。
「お前がここを出て行くと思えば、呼びとめて引き留めたくなる。お前を・・・帰したくないと思う」
冗談でも策略でも無い。この手を離したくないのは、まぎれも無い本心で。
もしも机がなければ。立ち上がっていれば抱き寄せてしまったかもしれない。
あと少しだけ、時間を。彼女の願いを思い出し、一瞬の躊躇の後にジョルジュはふっと力を緩めた。
「これが、オレの恋なんだろうな。・・・それだけだ」
「あ、ありがとう、ございます・・・」
本気で一つ一つと向き合う気なのだろう。赤くなりながらも、はもう視線を逸らしたりはしなかった。小さく絞り出すように感謝の言葉を呟く。
「・・・明日は出立予定だろう。ゆっくり、休んでくれ」
「はい。ジョルジュ殿も・・・遅くにすみませんでした」
時間の遅くなったのは彼女のせいでは全くないが、は律儀に謝って、今度こそ部屋を出て行った。




「蝶々・・・か」
彼女に最後の糸を絡めたのがあのハーディンとは、皮肉な話だ。
ニーナを想いながらニーナと結ばれ、けれどその瞳に映ることは無かった男。
それでもニーナを想い続けた、そこに純粋な愛があったことぐらい、ジョルジュにだって分かっている。
自分もずっと、彼女を見つめて生きてきたのだ。その瞳がどこを見ていたか、分からないほど疎くはなかった。
ハーディンがニーナに捧ぐ愛を、哀れに思えた程度には。
「ニーナ様・・・」
これ以上、後悔などはしたくない。
だからせめて、ニーナを救うために全力を尽くす。それがアカネイアの騎士としての、自分の使命だ。
ジョルジュは王妃から賜った聖なる炎の弓を取り出して、その弦を張り替え始めた。




ようやく一人になって、はまだおさまらない胸の動悸を抱えたまましゃがみこんだ。
「・・・・・・私は・・・」
恋なんて、とはもう言わない。遠慮しないで欲しいと言ったのは自分だ。
握られた手に、向けられた強い瞳に、帰したくないと告げた、低く落ち着いた声に、惹きこまれそうだった。
今までずっと、恋を拒否する自分の為にそんな気持ちを隠してくれていたのだと気付いた。その感情を思えば、申し訳なくて再び泣きそうになる。
やはりあの人の中には、燃えるような熱があった。冷静さと穏やかさの下にうずめた、確かな衝動があった。

火照る頬に、風を求めて昼間の中庭へ出る。
昼と同じベンチに腰掛けて、月の光に照らされて渡り廊下を見上げた。
今はもう、微かな痛みは感じない。
それから先程訪れたばかりのジョルジュの部屋を少し探してみたけれど、それなりに方向音痴なには、中庭からその方向を特定することは出来なかった。

笑顔に、言葉に、熱さに。すべてにこころ揺らされる、これが恋だというのなら。
あともう少し、時間が欲しい。
敬慕と恋情を区別できるだけの、時間が。
騎士として傍で弓を引く時の彼に、確かに感じる大きな尊敬を思い出しながら、は中庭を後にした。