涙
夕刻からマルスの補佐として執務に入り、そろそろ今日の仕事もひと段落という頃になって、マルスとジェイガン、そしての3人の元へ、書類の束を抱えたジョルジュが訪れた。
「マルス王子、頼まれていた分が揃いました。これで、出立できる」
「ありがとうジョルジュ、こんなに早く。助かったよ」
「いえ。この国に心を砕いてくださること、感謝します」
は二人のやり取りを、書類に集中している振りをしながら盗み見ていた。
ジョルジュは普段に見せるのと同じ穏やかな表情で、マルスに向かって深く一礼し、には視線ひとつ向けずに退室した。
「マルス様、それは・・・?」
「ああ、ぼくたちはドルーアへ行かなければならないけれど、アカネイアをこのままにはしておけないからね。この後しばらく街の整備なんかをお願いできる人を集めてもらったんだ」
姉エリスもさらわれてしまっている。本来ならば誰よりもすぐにドルーアへ向かいたい筈のマルスは、しかし理由はどうあれ自分たちの侵攻によって荒れたパレスや城下町を気にしていた。
ドルーアと繋がって私腹を肥やしているような者ばかりが残ってしまっていたパレス王宮にまともな人員を集めるためには、アカネイアの五大貴族であるジョルジュのメニディ家や、ミディアのディール家の協力が必要だった。
その指示連絡をジョルジュたちに頼んでいたのだという。
彼が数日忙しかったのは、そのせいなのだろう。はそれを聞きながら、どこか安堵していた。本当に、忙しかったから会わなかったのだと。
マルスは早速、受け取った書類に目を通し始めた。そこへジェイガンが待ったをかける。
「お気持ちは分かりますが、本日は終わりにいたしましょう。その件が終わり次第出立予定でありましたから、明日には全軍を集めます。王子も、本日はしっかりと休まれますよう」
「あ、うん。そうだね。ジェイガン、、ありがとう。二人もゆっくり休んでくれ」
マルスの言葉にジェイガンも退室し、とマルスは部屋に二人きりとなった。
も退室しようかと思ったものの、マルスはまだジョルジュから受け取った書類をぱらぱらと見ているので少し躊躇する。
しかしいつまでもここにいるわけにもいかない。立ち上がって椅子をしまうと、「あれ?」と小さな声が聞こえて顔を上げた。
「どうかなさいましたか?」
尋ねるとマルスは、書類の最後の一枚を抜き取って、とそれを交互に見比べる。
「うーん・・・」
「マルス様?」
珍しく困った顔を見せてそれから、彼女の主は微笑んだ。困った表情のまま。
「、今日は疲れてた?」
「え?いえ、特には。休憩もいただきましたし」
心配なのは、その休憩の後からなのだけれど。
マルスはマルスで、仲間のことは見ているつもりだ。彼女の様子が普段と違うのに、ジョルジュが残したと思われるメッセージに従って良いものかと悩む。
彼のことだから、悪いようにはしないだろうという確信はあるが、それでも心配になるほどに今日のは様子がおかしい。
「何か悩みごとだった?何も言わなかったけど、ジェイガンも心配してたと思うよ」
だから早く休めなんて言ったんだ、とマルスは笑った。
「それは・・・すみませんでした」
「謝ることはないよ。もしぼくが、の友人として聞けることなら、何でも聞くよ」
友人だなんて、なんともったいない言葉だろう。
けれどは誰かに尋ねてみたかった。自分ではまだ知りえない、「愛」というものについて。
「ありがとうございます。・・・少しだけ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「うん、なに?」
穏やかに微笑む主に、何を尋ねれば良いのだろう。
ハーディンの最期の言葉に、本当は何を思ったのか。
愛するということが怖くはないのか。痛みを感じることはないのか。
聞きたいことはたくさんある。
けれどは、冷たくなった自分の手をきゅっと握った。
それは自分が愛を知ったその時に、自分で答えを出すべきことだ。
「・・・たとえ騎士でも、人として愛を知ることは必要でしょうか?」
その質問に、マルスは数秒驚いた顔を見せたけれど、すぐに再び微笑んだ。僅かに伏せられた表情が穏やかで、はそれをじっと見つめた。失礼だったかと思ったが、目を逸らせない、心地よい表情だった。
「そうだね。これは、ぼくがシーダを好きだからかもしれないけど・・・」
手元の書類を一枚、二つに折って、主が顔を上げる。
「しあわせなことだよ」
その顔は、今の自分にはきっと出来ない。幸せな愛に満ちた表情なのだろう。
過ぎたことではあるし、自分がその事情を知る由も無いが、それでもハーディン皇帝が主のように優しい愛に包まれていたとしたら。
彼は最期まで、ただ優しい愛に身を委ねていた。本当に、ニーナ王女のことを愛していたのだ。
愛、なんてよく分からない。そう思っているでさえ、それが分かってしまった程に。
「は、ハーディンのことを気にしてくれていた?」
主の柔らかな声に、顔を上げる。
「・・・泣かないで。ありがとう」
「え・・・、あ、」
言われて初めて気付く。涙がぽろぽろと零れていくことに。
慌てて手の甲で擦ったが、溢れる涙の前にその一度など無意味だった。
ハーディンのこと。それが彼女を悩ませた原因であることは間違いない。
けれど、今見たばかりの金の髪の弓騎士のこともぐるぐると、彼女の頭の中でハーディンのこととともに混ざり合っていた。
どうして。何に対して涙が出るのだろう。
ジョルジュに会えば、少しは答えが見えるのだろうか。
なんとか涙を止めようとするに、マルスはかさりと、先程折り畳んだ一枚の紙を差し出した。
「今日はこれで終わりなんだけど、実はさっきのジョルジュ将軍の書類に、別の書類が混じっていたんだ。・・・部屋に戻る前に、届けてもらっていいかな?」
「あ、は、はいっ・・・わかりました」
「泣きやんでからね」
まあ、ジョルジュなら気付いてしまうかもしれないけれど。
こっそりとそう考えて、苦笑する。
結局、ジョルジュの希望どおりに届けてもらうことにしたのは、やはり彼なら悪いようにはしないだろう、という確信から。
盛大に謝って、何度も頭を下げてから部屋を出た彼女の、閉めた扉をすぐに開ける。
小走りで去っていくに、マルスは後ろから声をかけた。
「、そっちじゃないよ」
逆方向を指差せば、彼女は恥ずかしそうに俯いて、やはり再び何度も頭を下げて走り去って行った。