笑 顔
その日は朝から、一度もジョルジュを見かけていなかった。
昨日も一日、会っていない。そういえば一昨日も。
三日前といえば、アカネイアパレスを奪還した日だ。あの日ミディアを救出して以来、彼を一度も見ていない。
アカネイアの将軍であるから、ここでやることも多くあるだろう。
ニーナ王女も見つからなかった。王宮内も荒れている。パレスやノルダの街だって酷い有様なのだ。
自分も忙しいマルス王子について多くの職務をこなさなければならなかったから、二日は気にしなかった。
勝手な話だ。
三日目、自分が少し落ち着いたからといって、急に、会っていないことを思い出すなんて。
昼食の席でも見なかったなと思いながら、パレス王宮の一見穏やかな中庭のベンチに腰を下ろす。
マルスはまた夕方になったら頼みたい仕事があると言っていた。休めるのは数時間だろう。
天気がいい。
柔らかい陽射しに、気持ちの良い風。
つい先日ここで大規模な戦闘が行われたばかりとは思えないほどに、空気は落ち着いていた。
ハーディン皇帝の死とその願い。
自分の主はどう感じたのだろう。
狼騎士団の面々はマルスに礼を言ったが、本当はどのような気持ちでいたのだろう。
騎士になってから。この戦争に同行するようになってから。
は自分の未熟さを痛感していた。
戦闘で後れを取っているとは思わない。けれど人間として、自分に足りないものが多くあるのだと突き付けられる。
ハーディン皇帝は悪だと、簡単にそう信じていた。
今でも、彼の行いは皇帝という立場上、許されないものだったと思っている。
それでも、これまではその「悪」の背景など考えたこともなかったというその事実が、彼女の気持ちに影を落とす。
「?」
「あ・・・ミディア殿」
正面から人の近付いてくるのにすら気付かないほど、考えに沈んでいたらしい。
はぱっと立ち上がった。
「あら、いいのよ。・・・隣に座ってもいいかしら」
「はい、もちろんです」
人質としてハーディンに捕らえられていた、アカネイアの女性騎士。
救い出した時には弱ったところもなく、アストリアと再会を喜び合っていた美しいひと。
よりも大人で、穏やかな、それでいて毅然としたひと。
彼女が救出されたことによりパレス城下が沸いたことを、はしっかりと覚えている。
国の人々に強く支持されている、アカネイア騎士団長だ。
「どうしたの?随分と暗い顔だわ。少ない休息でしょう」
心穏やかに過ごした方がいいわよ、と彼女は笑った。
同じ女性騎士として、これから仲良くしましょう、と微笑んでくれたことを思い出し、は口を開く。
「ハーディン皇帝は・・・なぜ変わってしまったのでしょう?」
唐突な言葉に、ミディアは笑顔を引っ込めて少し目を見開いた。
そしてふっと息を吐く。
「ニーナ様の愛を得られなかった、それだけで皇帝の責務を投げ出すほどに・・・」
「理解できない?」
理由は聞いた通りで、それでも分からないというに、優しく尋ねるミディア。
「はい。もちろん、辛かったのだろうとは思います。けれど、皇帝という立場であるなら、あってはならないことです」
彼女の正論を聞きながらミディアは、いつだったかアストリアに「君は正論が過ぎる!」と叱られたことを思い出していた。
の今の葛藤は、あの頃の、アストリアを敵視していた自分と少し似ているのではないか。そう思うと、真剣に悩んでいるが愛おしく思える。そして、あれからアストリアと共に過ごして変わっていった自分を、とても愛おしく思えるのだ。
「・・・そうね。彼の犯した罪は許されるものではない。その原因も、もとを正せば彼の心の隙が招いたものだったのでしょう。でも・・・私は、少しわかる気もする」
「ミディア殿・・・」
はミディアの言葉を、泣きそうな表情で聞いていた。
「愛する人への思いが強ければ強いほど・・・その愛を失う苦しみは耐えがたいもの・・・。私は騎士としてハーディンを糾弾したけれど、彼の痛みだけは・・・理解できる」
真剣に答えてくれている目の前の騎士に、けれどは返事をすることが出来ない。
一体何と返せばいいのかわからないから。
人を愛したことも無ければ、その愛を失ったこともない自分に、ハーディンを「悪」だと断定する以外に何が出来るだろう。
黙り込んで俯いてしまったに、ミディアは再び笑顔を浮かべた。
「あなたはまだ若いもの。これから知ることになるわ。・・・知って欲しいと思う」
「はい・・・」
その穏やかな笑顔につられて、せめてこの優しい人に笑顔を見せようと顔を上げたその時。
中庭から見える渡り廊下を、三日ぶりに見るひとが歩いていくのが目に入った。
「・・・!」
ゴードンと、そしてジョルジュが笑いながら通って行く。
それだけのことなのに、ちくりと胸が痛んだ。
あの二人が仲が良いのなんて、前からだ。そんなことずっと知っていた筈なのに、ジョルジュの楽しそうな笑顔に心が軋む。
あの人は、自分の前であんな笑顔を見せたことが無い。いつも穏やかに微笑んではくれるけれど。
「・・・?」
「あ・・・」
ミディアの心配そうな視線に、は慌てて渡り廊下から目を逸らす。
不思議に思ったミディアが渡り廊下に視線を向けた時、彼女の友人は、確かにこちらを見て薄く笑っていて。彼の弟子が隣で不思議そうに首を傾げる。
(・・・ジョルジュ?)
彼との関わりをまだ知らないミディアが、彼の視線につられて隣の彼女に視線を戻した時にはもう、ジョルジュは再びゴードンと共に歩き出していた。
恋なんて知らない。愛することなんて、わからない。
それでも。
笑顔ひとつにこころ揺らされる、これが恋だというのなら。
この気持ちが、尊敬だけではおさまらないというのなら。
この微かな痛みがいつか大きくなって、ふとした瞬間にあの乱心を生むというのだろうか。
そうだとしたら恋なんて、知らないままでいい。
マルスとシーダのように、甘く優しく焦がれる、恋は幸せなものだと思っていたのに。
暗黒皇帝の心に在った確かな愛を知ったことで、の心は揺れ出していた。
隣で微笑む穏やかな騎士も、愛し合う主とその婚約者も、それから、尊敬する弓騎士も。
こんな気持ちを抱いて相手を見ることがあるなんて、想像も出来なかった。
「好意がある」と言われてからずっと、あの時失礼な返答をしたと後悔はしていた。それについて謝罪もしたけれど。
あまりにも何も知らないままでの謝罪に、意味など無かったんだわ。
私は何も、見ていなかった。いつも気付けば傍で自分を気にかけてくれた人が、笑顔を見せていなかったという事実にすら、今やっと気付いたほどに。
これから愛を知って欲しいと、そう告げてくれたミディアに、しかしは泣きそうな微笑を返すことしか出来なかった。
暖かい陽射しに、時折吹く涼やかな風に、身体は幸せな休息を感じている筈なのに。
ただ自分はあの人にどう接してどう答えれば良かったのか。これからどうすれば良いのか。
今それを考えなければ、この痛みが広がってしまう気がした。