宇和島で盛んなお講とは?


仕事を辞めてから一ヶ月余りが過ぎた。

この間、成川にキャンプに行ったり、石鎚山に日帰りで紅葉を見に行ったり、連日飲み回ったり。端から見ればずいぶん身勝手に遊び回っていると思われるだろう。

しかし私の本心ではやらなければならない事が山ほどある。が、遅々として進まない。

若い頃であればおそらくそれなりに進んでいたであろうが、なにぶん視力が衰え、資料の整理をしても、ものが見えないという不便さを味わっている。今置いたはずのものが見つからない。

探すことをあきらめて別な作業をしていると、そこにあったことが判る。書籍で上下巻あるものが揃ったためしがない。買った時には仲良く書棚(と言うほどのものではないが)に並んでいるのであるが、上下同時に読むことはないから、いつの間にか離ればなれになるのである。

今日は長男の婚約者とはじめて対面した。派手さはないが真面目そうな女性だった。

これでまた人生の一区切りがついた。


◆北海道から帰って一ヶ月もしないうちに、今度は九州に行ってきた。まさに 「北は北海道から、南は九州まで」 移動するなどとは、我ながらあきれた。九州は肥後熊本で甥の結婚式に出席するために、某日八幡浜からフェリーで臼杵に渡った。偶然にも行く寸前、宇佐にいる中学時代の同級生からメールがあった。宇和島から九州に行くにはフェリーしかない。この機会に会う予定にした。

若い頃は何度も九州の林道をバイクで走る為にフェリーを利用したが、最近はフェリーにのる事もなく、手続きの方法さえ忘れていた。八幡浜から臼杵までは宇和島運輸フェリーと九四フェリーがある。他に佐田岬の先から佐賀関に渡る九四国道フェリーがあり九州に渡るだけなら、それを利用する方が安上がりなのだが、熊本まで行くので、やむをえず臼杵に渡った。

ネットでの申し込みだと往復それぞれ5%割引になるが、それでも合計2万なにがしかだった。いたい。

臼杵に着いたのは午後2時15分だった。梅雨の半ばだったが宇和島を出る時は降っていた雨もあがりほっとした。気分的にもう少し早く到着出来るだろうと思っていたが、合志市にある弟の会社に到着したのは、午後5時20分頃だった。57号線を走り、竹田市を通過したとき道路に「荒城の月」のメロディが流れるような仕組みがしてあった。なかなかしゃれていた。

「口蹄疫(こうていえき)」問題は宇和島に住むものにとっては、まさに「対岸の火事」であったが通過する道路の至るところで消毒をして居るのを体験すると、切実な問題であることが判った。

カーナビのおかげで目的地にはなんとか辿り付けたが、国道からそれ、狭い畑の中の道を走らされたのには参った。ナビの特性なのか、道なりで良いのに、右に曲がれだとか左に曲がれだとか指示される。「まもなく」という言い方にも違和感を感じる。宇和島市内を走る時にも、完全に左折だろう、と思う場所で何も言われず、交差点でもないのに、交差点注意とか言われることもあるから、慣れてはいたが。弟の会社の住所を入れていたので、そこまでは案内したが、周りはトウキビ畑のど真ん中で終了し、結局弟に電話して教えて貰った。農場のような会社に行くと甥の嫁になるMちゃんがいた。弟に宇和島からクーラーに入れて持参したお気に入りの「ジャコテン」を渡した。

やがてこの春マリで結婚した姪がアフリカ音楽のミュージシャンである旦那のレミンを連れてきた。

私の車に姪とレミンを乗せ、弟と甥が先導して宿泊する予定の熊本市内のホテルに着いた。

裏道を走って甥がとってくれていたホテルに着いたのは6時半であった。弟一家と食事をすることになり、着替える間もなく、市内に向かった。私にとって熊本市内は何度走っても判らない町である。

四回ばかり行った事があるのだが、狭い宇和島のように目当てにするものが見あたらない。

予定の店に入ってしばらくすると今度はオーストラリアにすんでいる姪がフィアンセのマークを連れてやってきた。マークは何年か前に宇和島にも来たことがあるので、顔は覚えていた。

適当にメニューからオーダーしていたら弟の嫁がやってきた。かくしてこの店の一角には異様な集団が占拠することとなった。他の客はさぞかしたまげたであろう。日本語、英語、フランス語が入り乱れて。さらに驚いたのは、姪とマークがその日選挙応援で熊本に来ていた、鳩山由紀夫前首相を真ん中に写真を撮っていたのである。姪は高校からオーストラリアに居るために、彼が前首相だなんて知るはずもない、ましてマークは……。二人に挟まれて写っていた鳩山さんの顔は完全に固まっていた。宗教上の理由でレミンは豚肉が駄目、マークは海の臭いがだめで海苔が食べられないと言うことが判った。かなり満腹になり、私は一足先ホテルに戻った。長い一日だった。

◆翌日の結婚式はそのホテルであった。お嫁さんは沖縄の人。親族の紹介でさぞお嫁さん側は甥の親族に驚いたことだろう。ふと宇和島の名物男タニやんの結婚式を想い出した。タニやんが自分の結婚式でズボンをおろし臀部を露出させ「腰ひかり」などと駄洒落を言ったところ、新郎側はいつも見慣れている出し物のために大爆笑をしたが、新婦側は全員しらっーと固まったと聞く。

◆無事結婚式も終わり、その晩も連泊となった。夕方から降り始めた雨は翌朝まで降り続いたが私がホテルを出る頃にはあがっていた。昭和61年版の九州ロードマップを便りに、何度かナビに道をだまされながらも大分県中津に向かった。濃霧の安心院では気温が22度で肌寒かったが、中津では蒸し暑い梅雨の日差しになっていた。中津城の前で同級生に会い、「ハモ」をごちそうになった。「ハモ」は今までに食べた事は何度かあったが、そこで食べた「ハモ」の湯引きのなんと美味しかったことか。

その日の朝、食い意地のはった私は熊本のホテルで朝食のバイキングを二人前食べた事を後悔していた。その後宇佐神宮に案内して貰って、何故かお土産に美味しい「唐揚げ」をしこたま貰った。高速で臼杵に向かい、なんとか夕方のフェリーに間に合った。「口蹄疫(こうていえき)」の予防は九州に比べて愛媛県のほうがかなり厳しかった。発生当時八幡浜での消毒の模様をテレビニュースで見たが、我が車がそのような目に遭おうとは。行きも帰りもフェリーはがら空きであった。乗客も少なかったのだが、不運にも往復共々うるさいガキに悩まされた。最近の親は……本当にこの国の将来を心配した。

【平成22年7月18日】


昨夜(6月20日)旭川から帰ってきた。宇和島を出た当日はあまりにも蒸し暑かったため、事前にきちんと準備していた長袖を持って行くのを忘れたことが全ての失敗のもとだった。帰りのJAL機内では寒さに震え、松山からのJRでも寒かった。帰宅した時、部屋の温度計は29度であったが、寒くて仕方がなかった。消耗の極みだった。

6月13日に松野の正木酒店の酒蔵で行われた「おおたか静流」ライブでは花れんさんも来られていたし、その後の会費制の打ち上げでは。おおたかさん、花れんさんのお二人と二言三言話をする事もできた。本当はその日からさかのぼって少し紹介したいのであるが、このところ気持ちが高揚期を過ぎたのか、とてもそんな気分にはなれなかった。かつて北海道は車で回った事があったが、今回は初めて増毛に行った。映画「駅」の舞台になった場所だ。何とも言えない素敵な雰囲気だった。酒屋では試飲(私は車の運転役があったので飲まなかったが)も出来た。ランチタイム海鮮丼=980円という看板にだまされて、結局2850円の海鮮丼を食べる羽目になった。あれは絶対詐欺だぜ。「お客さんがこれで良いと言ったから」、といかにも素朴そうなおかみさんを演じていたが、

普通、メニューを出して「海鮮丼にはこれだけのランクがありますが」、と説明するだろう。

確かに不味くはなかった。ただ、全員それが980円のものだと信じ込んで食べていた。

四人のうち二人はビールを飲んで、別に寿司を一人前とったあと、勘定を聞いて16000円なにがしと聞いて驚いた。だってこれで良いですかと聞いたらそれで良いと言ったから、だそうな。

ただ写真を見せただけで値段は言わなかった。増毛は良い町だったが、あの店だけは不愉快であった。それなりに豪華な海の幸てんこ盛りなので決してぼったくりだとは思わないが。

【平成22年6月21日】


酒をまったく飲まなかった私が、寝酒をたしなむようになったのにはそれなりの訳がある。その訳とは……言わないでおこう。今もコーヘーちゃんからもらったハイボールを焼酎で割って、いや焼酎をハイボールで割って飲んでいる。美味い!

学生時代酒に逃げることを覚えた時期があった。芝白銀にあった大学のそばに小さな酒屋があった。学校に行く途中そこで酒を買って、昼間から酒を飲んでいた頃があった。その時も訳ありで酒に逃げていた。ある日昼日中から酔っぱらってキャンパスのコンクリーの地面に鉄釘とハンマーで「番外地」と彫っていたら教授がやってきて(名前も覚えていなくで失礼しました) 「何してるんですか」と尋ねられた。

何故か急に自分のやっていることが恥ずかしくなった。今振り返るとその教授と対等な場所にいると錯覚していた自分がとても恥ずかしい。その日から酒に逃げる事を止めていた。あの教授の一言がなかったら…人生も変わっていたのかも知れない。

本来酒は大嫌いであった。それは酒に弱い父の姿を見てきたからであった。

幼稚園の頃にすでに酒に悩まされる父の姿を見てきた。自分は絶対こんな大人にはならないと、子供心に誓っていた。その父は私が小学二年生の時胃潰瘍の手術をした。それまで幾度も夜中に泥酔して帰って は「胃が痛い胃が痛い」と叫ぶ父の声を布団を被って耳をふさいで耐えてきた。その酒に対する憎悪心がずっと酒嫌いの自分を形成して居たのだろう。大宮庫吉さんも人が悪い。まず飲み始めが 「日の本焼酎」だった。

あの気品ある姿を見たとき、これは飲まずにおられるかと、つい負けてしまった。そうして今度も訳ありの酒になってしまった次第である。これまで晩酌などしなかった私が家人にこっそり飲みはじめたものだから周囲はあわてたらしい。「日の本焼酎」はちょっと高いので、ササオカの特売の時に 1.8リットル980円の 「むぎのか」でいつもはしのいでいる。はじめは生で飲んでいたが最近はミネラルウォーターで割って飲んでいる。

そうか、酔っぱらっているので肝心の本題を忘れていた。そろそろカウンターが10万台になりそうだ。特別に記念品など出せる訳ではないが、まさかここまで伸びるとは思わなかった。感謝!

【平成22年5月31日】


5月も中旬のある日、知人と焼き肉を食べた帰り、何時ものように一人でスナック「V」にふらりと立ち寄った。時間はそれほど遅くはなかったが、二階にある「V」のざわめきが階段を上る前に伝わってきた。「まあ一人くらいなら座れるだろう」。そう思ってドアの隙間からそっと中をうかがった。カウンターはほぼ満席だったが、入り口に近い席を先客が空けてくれた。Kさんご一行様であった。普段私が行くとき、この店はほとんど客が居ない事が多い。

8脚ほどの椅子があるカウンターと、奥に申し訳程度のボックス席があるだけの小さな店である。私が行く時はひと気の無い店内にはいつもジャズが流れている。

ママさん一人の小さな店である。(木・金・土には不定期ながらも手伝いのTちゃんがカウンターの中に居る時もあるが)一人が静かに飲む事の出来る落ち着いた店である。カラオケもあるのだが、ジャズをバックに野草の話などをしながら時が過ぎるだけの雰囲気が気に入っている。横道にそれた。本題に戻そう。

客層が良いから、店の中が賑やかな状態でも、決してわずらわしい場所ではない。

その日私の座ったカウンターの左の二人離れた席に、なんとあの「大竹伸朗さん」が居たのである。ぶったまげた。しかもあのトレードマークの黒いキャップを後ろ向きに被って。嘘だろー? 焼き肉店で飲んだ生ビール四杯が一気にまわってきた。スナック「V」で飲みはじめた「神の河」の水割りもきいてきた。

狭い町だから、何度か大竹さんの姿を見かけた事がある。三年前だったか東京の現代美術館で大竹さんの個展を見に行く数日前に、JRの駅の裏ですれ違ったことがあったし、自宅の近くで犬の散歩をしている大竹さんを見かけた事もあった。

しかし、驚いた。手を伸ばせば届く場所で大竹さんと空間を共にする時が過ごせるなんて。

【平成22年5月25日】


やっとこさ「ぷらら」への引っ越しが完了した。

ローカルにこだわる私としては、四国インターネットへの未練があるが、「光回線」&「光電話」という勧誘に負けてしまった訳だ。宇和島に光ケーブルが開通して以来、執拗な勧誘電話にも、頑なに拒んできたが、時代の流れには逆らう事が出来なかった。ネットを開始してからずっと「四国インターネット」へ愛着を持っていた。今更どう弁解しても始まらない。

なお、関係ないが私の体調不良は少しも改善していない。酒を飲んでもいないのにのぼせ感と足の疲労感は解消しない。病院で検査してもらったが肝臓、腎臓、貧血、糖尿などには異常はないらしい。あと考えられるのは「脳梗塞」であろう。これは怖い。一ヶ月以上も更新がなければ管理人は倒れたと思ってもらいたい。そう言えば同級生が今年に入って二人亡くなった。

いつの日にかこの世とおさらばする時は来るだろうが、まだやり残したことは沢山残っている。

【平成22年5月2日】


この春孫が小学校一年になった。入学して半月近く経とうとしている。

学校の様子を聞いてたまげた。私の母校「鶴島小学校」は一学年一クラスで、ドーナツ化現象とは聞いていたが、孫の通う小学校は新一年生は三クラスらしい。

それはそれで良いのだが、通学は「集団登校」になっているだろうと尋ねた。

「集団登校じゃないよ」  孫はこともなげに言った。

「ほしたら一人が行くんか?」 

「ううん。班長さんと副班長さんと三人で行くよ」

孫の町内の小学生は僅か三名でありました。

班長さんは五年生、副班長さんは二年生らしい。二年後には四年生の班長さんと三年生になる孫が副班長のようだ。もし、しばらく新入生が来なければ、班長さんと副班長さんの二人で「集団登校」をすることになるのだろう。少子化は寂しい。

(私の町内では昔はソフトチームが一区と二区にそれぞれあった。現在は町名表示も変わり、一丁目、二丁目、三丁目になったがおそらくソフトボールのチームは作れないだろう)

【平成22年4月26日】


三寒四温とはよく言ったものだ。昨日は車のエアコンをつけなければならないほどの暑さだったが、今日(平成22年4月7日)は一転して寒くなった。温度計は20度を示しているが、部屋の寒さはそんなものではない。寒さ対策として寝袋をはいて机に向かっている。この格好で、この冬を乗り切ったのだが、それにしても寒い。こんな気候のせいなのか三月末から極端に体調が悪くなった。夕方になると酒を飲んでも居ないのに顔が火照る。血圧が高くなったのだろうかと思い、計ってみるが、たまに180−98なんて数値が出るが計り直すと130−80だったりする。更年期障害はこんなものなのだろうか?男性にもあると聞いたが。季節の変わり目の気温の変化に身体がついていけなくなったのだろう。毎日体力の衰えを実感している。

先日とうとうネットの回線を光りに替えた。プロバイダーもついに四国の名が消える事になった。64btの電話回線からADSLに変わってもずっとローカルの四国インターネットにこだわっていた。会費を払っているため、今年の秋まではそのまま使用できるが、いつかはメルアドの変更のお知らせをしなければいけない。

あー面倒くさい。実はこれが一番嫌だったのでくどい電話での勧誘も断ってきたが、電話も光にすれば料金が安くなると言う甘言に惑わされた。通信速度は最高で60MB出たが今のところ30MB前後である。しかし、実感としては8MBのADSLとほとんど変わりはない。最近ツイッターなる言葉が流行している。つぶやきであれば私なんぞ先端を行っていたのだろうが、無精この上もないため今風のツイッターにはついて行けない。私は携帯は嫌いである。

さて本題、この秋にマリ共和国にいる姪がホテルを造ることになって、現在オープンに向けて大忙しの状態らしい。世界遺産の町で地元の人が働く事の出来る場所を提供するのがメインの目的らしい。下の姪はオーストラリアの永住権を取っている。マリの姪もマリの国籍を取ったそうだ。我が家の血には国際的なDNAが流れているらしい。そう考えると、狭い宇和島にこだわることのアホらしさを感じる。だが、下にも書いているが【宇和島らしさ】にこだわるアホも居て良いだろう。

三月のある日姫路の兵庫県立歴史博物館に「ミニチュアの世界〜小林礫斎の宇宙(だったかな?)」を日帰り強行軍でえ行ってきた。往復700kmはさすがにきつかった。私は子供の頃からミニチュアが好きだった。地球規模で考えれば私が【宇和島】にこだわるもの何かそれにつながって居るように思った。

箱庭、盆栽、それらとあい通じるものが私の中にあるのだろう。そう言えば尻割山の上から町を俯瞰する時、知らず知らずのうちに【宇和島】の町を私の箱庭にしていたのかも知れない。

明日私は63歳になる。長いようで短い道のりだった。

【平成22年4月7日】


私は何時もタイミングが悪い。「よしけんちゃん」のところに行ったのは金曜日だった。

それも、まだ熱が高くない時だった。おまけに私の職場は二人しかいない。多人数ならいつでも病院に行くことが出来るだろうが、同僚が休んでしまうと行くことさえできない。

また、こちらも遠慮して休みを取ることが難しい。そんなこんなが重なって、豚インフルエンザであることがはっきり判ったのは翌週の月曜日であった。39度の熱が出たことを告げると即検査をしてもらった。紛れもなくA型であった。その頃には熱も下がり37度後半であったが、ウィルスをまき散らすおそれがあるために、三日間は自宅待機をするように診断書を書いてもらった。ニュースでは宇和島地方では下火になってきたと報じていた。私は何時もタイミングが悪い。

【平成22年1月20日】


昨年末からずっと風邪気味だった。ただ、それほどの熱は出なくて、せいぜい37度弱だった。私は不死身だと妄想していた。ところが1月15日体調が一変した。新型には感染しにくい、高齢者である。息子が新型に感染しても、我関せずと決め込んでいた。あまりにもだるいので熱を測ると37度4分であった。これは私にとっては恐るべき体温である。すぐに「よしけん」ちゃん医院に駆け込んだが、「新型」ではないとお墨付きをもらった「只の風邪ですよ」と言われたものの様態はだんだん悪化してきた。私が愛用している「水銀柱」の体温計が見あたらず、テルモの「ピッピ」と言うデジタル型のもので計ったら39度2分もあった。それが昨日の昼である。一進一退をしながらも熱を測るのが楽しみになってきた。38度後半を上がったり下がったり。だが、デジタル型には大きな盲点があった。

水銀柱のものは37の数字が赤く書かれており、39度なんかあると、その長さに「おーすごい」と感心するのだが、デジタル式だとただ数字が変わるだけで、その課程に感激をする事がないのである。ようやく水銀柱の体温計を見つけて計りながら、老いてきたなーなどとしみじみ思うのである。体力がなくなると気力も衰えることが今回の発熱騒動でよくわかった。仕事を休んでいるので時間は十分あるのだが、まったく何もする気が起きない。読書をする気にもならない。

【平成22年1月16日】


それにしても昨年の有給休暇が16日も残ったまま期限が切れたことは

残念だった。休みたくてもなかなか休みを取ることが出来ないまま年が

終わった。まあ有給休暇があるだけでも有り難いことだと喜んでおこう。

と書いた翌日、規則が変わり、一年に限り繰り越しが出来る事になった。

いろいろな情況で、自由勝手には取りにくいが、万歳と書いておこう。



早くも一年の365分の2が終わった。私の命のロウソクはあとどのくらいあるのだろう?

今年の目標。禁酒は不可能だ、禁煙は可能性大。なにしろ禁煙は今までに二回している。

最初の禁煙は二男が生まれた時だった。副流煙が大きな社会問題になった時である。

その時は意外と簡単に禁煙ができた。時々夢の中で吸ってしまい、あー禁煙していたのに、などと思った時があった。なぜ再度吸い始めたのか?その二男が高校を卒業する頃、運転免許を取ったばかりの彼にに車を貸したことがあった。ある日その車の中に「ロンピー」が入っていた。

二男が友人からもらったけれど不味くて吸えなかったと言うことだった。ちょっと昔を思い出して吸ってみた。クラクラっとした。「いつでも止められるさ。」 と思いながら次第に入っていた。

それから十年、職場で課長と「お互い禁煙しますか?」と競争した。課長は偉かった。即禁煙。

それに負けじと私も禁煙を始めた。それが、ある事がきっかけで昨年の一月から吸い始めた。

と言うことで今年の目標は「禁煙」に決定。煙草も値上がりしそうだし。煙草銭もばかにならない。

【平成22年1月2日】


今年も残すところあと僅かとなった。

関係ないけれど私の有給休暇16日は今年の終わりで消滅する。今年の一月からできた有給休暇のうち消化できたのはほんの数日だった。私の職場は様々な情況で使う機会がほとんどない。正職員は好きな時に好き勝手に使っている。そうしてそれらの職員の数倍は働いていると自負する私は有給の持ち越しすら出来ない待遇である。

結論=この世の中は理不尽なことで成立している。少しばかりの愚痴で今年も終わる。

【平成21年12月末】

千葉県在住のSさんとネットを通じて知り合ったのは四年ばかり前のことであった。

私より数年年上のSさんは幼少期を宇和島で育ち、その後上京して、三鷹高校、中央大学法学部を卒業され、時々テレビに出演される木村弁護士とは同級生だったらしい。宇和島に住む私以上に宇和島を大切にされている方だった。


先日見知らぬ方から喪中の葉書を頂いた。差出人にはまったく心当たりがない。

いぶかしく思いながらもよく見ると、差出人の会社名はSさんの会社であった。まさか!と思いながらも連絡を取ると、今年の九月、Sさんは急死され不帰の人となっていた。

軽妙洒脱で何時もユーモアに満ちたメールを頂いていた。リューマチがひどくなって、と最後のメールを頂いたのは6月25日であった。奥さんが高知県のご出身なので、奥さんの帰省に同行して、宇和島においでになったのは三年前のことであった。

招待するはずの私が逆に「ほづみ亭」でご馳走になった。その帰りに私のいきつけのスナック「A」にさそって飲み明かした。それからまもなくスナック「A」は店を閉じた。

私の周りで懐かしい事柄が次々と消滅していった。Sさんの死は未だに信じられない。

私の住所録の欄からまた一人消えていった。痛恨の極みである。合掌。

【平成21年12月13日】

宇和島の町もずいぶん変わってしまったような気がする。

〔宇和島らしさ〕が次第に消えて、どこにでもあるような只の田舎になった。

私はこの町が心から好きだと言えるのだろうか?自問自答しながらこの数年が過ぎ去った。YES or NO? 判らないままいたずらに時間だけがむなしく過ぎていく。 時代が変わったのであろうか??? ものごとを全て、「損か得か」と言う物差しで測る時代になってしまったのか。言いしれぬ悲しさと寂しさを覚える。 歴史とは一体何なんだろうか?答えが出ないまま今日も終わろうとする。虚ろな時代だからこそ、内実を求める事そのものがむなしい作業なのだろうか?イラクでは今日また自爆テロが起こり、100名以上の命が散っていったとメディアが報じていた。独裁者と言われていてもフセインが統治していた時代が続いていれば、何万人もの犠牲者はでなかったはずだ。

いきなり宇和島とイラクの話になってしまったが、要は何も出来ないこの身が辛い。

トップページに甘い言葉を羅列したり、削除したり。今の宇和島に一体何があるのだろうか? 果たしてホッとする町なのだろうか? 詐欺の片棒を担いでいるのかも知れないなどと自己嫌悪に陥っている。時計の針は何時しか翌日になってしまった。

【平成21年10月も終わる頃】


光陰矢のごとし、この言葉が身にしみる歳になってしまった。

命の砂時計が、毎日サララサと音をたてていく事が判り始めた。

少年老い易く学成り難し。何時までも勉強の続く日々であるが、

ふと、そんな事が何になるのだろうと自問自答を重ねている。

「念ずれば花開く」という言葉で有名な坂村真民先生の詩の中の

「鳥は飛ばねばならぬ、人は生きねばならぬ……」という言葉を

あらためてかみしめている。気が付けばもう秋であった。

【平成21年9月24日】


私がホームページなるものを立ち上げてまる8年が経過した。

平成13年の3月末、父が危篤状態に陥ったのがそもそもの

きっかけだった。町立吉田病院から心肺停止になったと連絡を

もらったのは平成13年3月30日の午前4時頃だった。偶然に

も夜間巡回の看護師さんが、いつもなら一番最後に回るはずの

父の病室をその日に限って最初に回り、父の様態に気が付いた。

連絡を受けて、駆けつけた時には手当をしてもらったおかげで

心肺は動いていたが、担当の医師から今夜あたりが山だろうと

告げられた。人工呼吸器でかすかに生存はしていたが、血圧は

40くらいであった。午後には80くらいまであがったものの、何時

旅だってもおかしくない状態であった。その日危篤状態の毎日で

あった。私は仕事を辞め、待機状態の日々が2ヶ月続いた。

家でじっとしている間に、これまで私が撮っていた写真をスキャン

しながら、やがて来るべき時の知らせを覚悟していた。その資料が

サイトを作るのに役立ち、また、父の残したものも利用する事ができた。

父が去ったのは日付が4月から5月に変わった時だった。

何故、宇和島の人間が町立吉田病院に入っていたのか、と言うこと

に関しては言いたいことは山ほどあるが、それはここでは書かない。

まだデジカメが高価な時代だったため、当時の写真は印画紙を

スキャンしたものばかりだった。今でも下手なレイアウトで恥ずかしいが、

初めの頃のものはあまりにもお粗末であるが、さわらずにしている。

気が付けばカウンターも8万台を超えていた。回線は電話回線、

ブロバイダーは「四国インターネット」である。今はADSL8mbにした。

夕食後には、しばしば接続業者からの無礼な勧誘電話がかかって

くるが今のところ四国インターネットから他の業者に変わる気持ちはない。

これもこだわりなのかもしれない。四国インターネットは会員サービスで

20mbまで無料のホームページをサービスしてくれているが、あっと

言う間にパンク寸前になった。あちこち無料のところを探してはなんとか

急場をしのいでいる。今年になって急に老眼が進んだ。緑内障、乱視、

近視、老眼。目の病気の総合商社みたいだ。緑内障は今のところ進行は

していない。眼圧を下げるための目薬を二種類それぞれ一日二回点眼し

ている。チモプトールとレスキュラと言う薬である。ところがレスキュラには

硝子体を傷つけるやっかいな副作用があるらしい。目にしみるだけでは

なく、ものが見えにくくなるのである。今度はそれを治すためにヒアレイン

という目薬を差さなければいけない。時々忘れると目の調子がおかしく

なる。やっかいだが、今のところそうするしかない。ついでながらサンコバと

言うビタミン剤の入った目薬も処方され随時使用している。健康を維持する

のも老化すると、なかなかのものだ。若い頃には考えられない事ばかりだ。

【平成21年8月29日】


ちょうどど昨年のこの季節だったかな。

ベナン共和国に行っていた姪が帰国して宇和島にやってきたのは。

その頃かなりしんどくて、病院で検査してもらったら下にも書いている

ような数値だった。体重は落として楽になったが、季節の変わり目は

あいかわらず身体が気温の変化について行けない。一月から始めた

城山一周だったが、二月から宇和島市内で不審火が多発して、14件ば

かり発生。夜うろうろ歩くと不審者に間違われるのも嫌なので夜間の外

出はあきらめた。一応数件の放火をある男が出頭して自白したらしいが、

町の噂では時間帯や手口などから複数犯ではないかと言われている。正直

言ってこの事件が完全に解決するまでは夜の城山一周はやめることにした。

しかし予定の時間は迫っている。歩いてきました、と報告できる日は来るの

だろうか。町中は出来るだけ歩くことにしているが、次第に自信がなくなった。

ホームページを更新する馬力さえなくなってきたのである。

【平成21年5月16日】


独り言を前回書いたのは今年の初めだった。

それからもう三ヶ月近く経過した。

今日、3月23日、昨日の雨も上がりお彼岸の墓参りをしてきた。

広見町、いや鬼北町広見でツバメを初めて見た。

昨年の初見は4月2日だったから、10日以上も早くなった。

昨年の今頃に比べ体重を70kgから62kgまで落とした。

血糖値が225あったのが今では110前後になった。

ここに至まではかなり厳しかった。今でも食後に腹が減る。

が、空腹をなだめ、間食を控え、なんとか60kgまで下げようと思う。

今年になって始めた城山一周は、雨天と飲み会の場合を除いて

だいたい通算8割のペースで毎晩歩いている。120km位は歩いた

と思う。歩き始めた理由として、実は密かな計画がある。

数年前「四万十ナイトウォークラリー」という催しがあり、私も参加した。

宇和島を午後一時出発して窪川まで歩き一番列車で帰るという企画だった。

舗装道路を歩いたのは初めてで、江川崎で夕方をむかえた頃は、

一歩一歩踏み出すたびに足は痛み、地面の固さが膝にまで伝わった。

リタイヤしようかどうか迷った。しかしそのまま続行した。

松野町あたりまでは先頭集団にいたのだが、江川崎では真ん中の

集団に落ちていた。しかも次第に遅れてきた。(出目峠で連絡を取ったら

最後尾はようやく水分を上ったところだった)。四万十川に沿って窪川を

目指したが、午前3時土佐大正でついに力尽き、最後尾に追いつかれた。

なによりも、遠い闇の先に見えるかすかに見える街明かりが窪川だと

信じ切っていた私が、到達した時そこが土佐大正だと判ると気力が失せて

いた。残り15km先に進む力は消えてしまった。リタイヤを決めて無人のJR駅

で寒さに震えながら一番列車を待ち、乗り込んだ車内には窪川まで到達していた

先頭集団の人が乗っていた。私の足の裏はマメどころか全体が水ぶくれに

なっていた。宇和島駅に着いても歩くのがやっとであった。こーへークンの

車で家まで送ってもらったものの、途中挫折という無念はぬぐえなかった。

で、出来れば今年の五月の連休辺りに一人ででも歩きたいと思い、その

予行演習も兼ねての舗装道路歩きなのだ。

前回の反省点、その一 舗装道路は山と歩き方が全く違っている事。

その二 マイペースで歩き、適当に休みをとること

(前回は夕食を食べるために江川崎で一寸休んだだけ)

その三 よく知らない道を歩くときは、明るい時に歩く方が良い。

(前回江川崎で真っ暗になり、四万十に沿って歩いても景色が見えないため

どこを歩いているのかさっぱり判らなかった。それで江川崎から

夜明けになるような時間設定をする事にした)ここまで追い込めば

たぶん、歩きを決行するしかないだろう。と自らを追い詰めている。

【平成21年3月23日】


下に書いた姪に関して、帰国して間もなくすぐアフリカのマリに仕事で行ってしまった。
弟の家系には(ってことは私もか?)アフリカの大地を求める血が流れているのか?
アフリカに行った姪の妹も(同じく姪ね)オーストラリアの永住権を取って豪州の住人になっている。

なんで、突然こういう話題になったのかと言うと、最近、私はこの「宇和島」に対する
希望と情熱が失せかけてきたことから始まる。

ごく近しい私の知り合いに、宇和島市の観光関連施設に勤めている人間がいる。

そこを訪れた市外、県外の観光客は一様に「これだけの歴史を有して宇和島はどうしてもっと宣伝しないのか。もったいない、もったいない」とおっしゃるそうである。

実に同感である。千葉の浦安に「東京ディズニーランド」が出来てからかなりの年月がたつ。千葉県にしっかりと定着している。しかしそれは歴史でもなければ文化だとも思わない。たんなるテーマパークであり、娯楽施設である。そこらへんのパチンコ屋とさほど変わりないだろう。翻って我が宇和島市を見ると、町の中央には重要文化財で我が国でわずか12の現存天守・宇和島城がある。だ・が・!である。市民にそんな自覚はない。毎日見飽きた白亜の天守がそれほど貴重なものであるという自覚がない。

せいぜい老人が毎朝健康管理のために山頂まで登るか、少しばかり勾配のある城山の周囲の道を歩く程度のものである。(ちょうど一周すると2kmらしい)その城山の案内板はわずかに二カ所しか設置されていない。重文と国宝の違いはあるが、姫路城など数キロ手前から「姫路城」と書かれた看板が至るところある。

先述した知り合いはよく観光客から「登山口がわかりにくい」と言われるそうである。

さも有りなん。二カ所の登山口が判るのは普段住んでいる市民だからこそ判るのであって、初めて宇和島を訪れた人は町の真ん中にそびえる城山と天守は見えても、そこに到達するためには、どこからどうやって行けばよいのか判らないだろう。

まるで、カフカの小説「城」である。(話がそれるが学生時代この本を買った覚えはあるものの、読み終えたと言う記憶がない)その知人は宇和島市の○○関係の職員に(案内が不親切ではないか)と言ったら驚く答えが返ってきたという。

その職員曰く
「観光客が前もって宇和島の事を調べて来るべきでしょう」

それを聞いて私は驚いた。確かに訪問する場所に対して予備知識を有することは大切であろう。しかしそう言う発想であれば道路標識など不要という事になるのではないか?

もっと飛躍すれば、観光案内所なども不要だという発想になるのではないか?

地理に不案内の人のために、標識や案内板や案内書があるのではないか?

初めて宇和島を訪れる人は、たとえ調べてはいても「百聞は一見にしかず」
であって、「はー。ほー。そうか、なるほど、ふーん。へー」と思うわけだ。

いけんいけん。年頭にあたって今年の抱負を述べるはずが、この町に対する失望感に満たされてしまった。正月にマリからかかってきた電話と、姪の大陸指向傾向と、おまけに、今日、薬師谷の入り口のバイパスを通って、また、市立病院の旧館がきえた事を発見して、なんだかこの町が「原宿化」しているような気がし始めた。

「原宿化」というのは私が勝手に作った言葉であるが、どうも宇和島市民の一部には宇和島の独自性を否定して、都会化=原宿化することが町の発展であると錯覚している傾向があるように感じる。バイパス工事現場には「平成21年度完成予定」と書かれていた。高速道路が開通すると人の流れが大きく変わる。さてさてどうなる
ことやら。数十年前には予想も出来なかった祭りの光景に「牛鬼」の背中に人が乗ると言う現象が一般化してきた。竹ボラが笛や太鼓に変わってしまった。

これも祭りの催しものがテレビの「ショー化」してきた事と関連があるのだろう。

平成21年1月3日・無病息災で今年を乗り切ろう。

下に書いた姪が帰国して、宇和島に遊びに来ている。今回は一週間ばかり滞在するらしいから、少し近場を回ってみることにする。真っ黒になっているとばかり思いこんでいたが、色白だったのには驚いた。話を聞いてみるとベナンに滞在中一度も日本に帰りたいと思った事がなかったそうだ。逆に、病気などで強制帰国をさせられる事を恐れていたとか。マラリヤにも二度感染したそうだ。すごい。食生活、生活環境、いろいろ違うところでたくましく生きてきた姪の生命力には脱帽である。


ベナンではカトリックが多いらしいが、ブードゥ教の黒魔術の話しにはビックリした。
持参したノートパソコンは液晶モニタが少しいかれかけていたが、面白い写真がたくさんあった。落ち着くまもなくすぐマリ共和国のほうに行くらしい。彼女の下の姪はオーストラリアに永住権を取ったらしい。男どもは日本の風土が気に入っているのだろうか。みな親もとを去ろうとはしないが、おそらく弟の浪的遺伝子が姪たちには
あるのだろうか。実に国際的な感覚を身につけた一家である。(08/05/12)

4月に入って、何かと多忙になって、ページの更新が進まない。5月の連休も疲れてしまっただけであった。

これはブログではないから、せっせと更新する必要はないので、さほど脅迫観念に襲われない。

下の方に書いたベナン共和国に海外青年協力隊員として派遣された姪も、早いもので今年4月には任期を終えて帰国するらしい。孫も同じ頃満五歳になる。そうして私は冥土への旅立ちが近づいてくる。おそらく私は一生を「バスに乗り遅れた青年」で終わるのだろう。それが悔しいとは思わない。時流に上手く乗って生きている同世代の人間がうらやましいとも思わない。
(おそらく私の負け惜しみなのだろうが) 曲がりくねった道を歩んできたと思う。そういう意味においては、他人よりは少しばかり豊かな経験だけはしてきたようだ。

昨年はいろいろな事があった。
まず、年始めから嫌な出来事が続いた。その前年からの持ち越しとなった問題から、派生して私は大切な友人を一人失う事になった。余り後悔などしない私であるが、もし時計を戻すことが出来るのであれば、その前日まで針を戻したいのが正直な気持ちである。嫌なことはさらに続いた。最大の山場は年末にやって来た。久しぶりに忘れられない時を持つことになった。

11月の初めに、ふとした出来事から職場である人間と衝突する事となった。その時に受けた侮蔑は生涯忘れる事はないだろう。悔しさで眠れない日々が続いたが、その出来事を境として私の環境は少しばかり好転し始めた。

人間欲を言えばきりがない。何事もほどほどが良いのだろう。
そう言う意味においては、まだ、私の場合ほどほどには届かない。
この冬はエアコンを一度もつけなかった。目の前の温度計は10度である。三十年近く灯油のストーブをつけた事がない。我が家の暖房は、ホームコタツとわずかな暖房マットだけである。今年はそのコタツもつけることはほとんどなかった。温風コタツなのでコタツをつけると中に入っていた猫がいやがって出てしまう。息子が受験時代に使っていた50センチ四方の足マットをコタツの中に入れ、それで暖を取っている。パソコンに向かうときは、足マットと毛布である。昨年はあまりの寒さに手袋をしてマウス操作をしたが、この冬はそこまでする程の寒さではなかった。

今日(2008年2月13日)私の知人のお兄さんの葬儀があった。
以前、私が会社を経営していた時には随分ご恩になった方である。
ご恩になったのはその方だけではない。お父さんの代から知人を含めて恩になっていた。
71歳はあまりに早すぎた人生の終焉であった。

私にもやがて終わりが来ることを如実に知らせていただいた今日一日であった。

何かの本で知ったが、四国でも瀬戸内海側の人間は沈む夕日を見て、今日一日を内省するが、高知県側の太平洋を見て暮らす人間は、沈む夕日に、明日の事を考えるらしい。

一概にこれがすべてを語って居るとは思わないが、以前九州から高知県に移住した人の口から「高知の人は太平洋ばかり見ているので気が合わない」と言う話しを聞いたことがあった。
なるほど。


最近発見した謎。本当なら「教えてグー」にでも出したいのだが。
宇和島では、藩祖・伊達秀宗が入部したのは元和元年三月十八日
と聞いていたし、実際に書かれた記録ではみなそう書かれていた。

ところが、私も見過ごしていたが、慶長二十年七月十二日まであるのだ。

その翌日七月十三日から元和元年になるのだが。諸年表ではそれが不明なのである。東大史料編纂所から昭和52年に出版されている
「「史料綜覧・巻十四」には慶長二十年が記載されていない。中央公論社の「日本の歴史」別巻・年表にものっていない。

悩む、悩む。

その後、どうにか解決した。

これは歴史書の「くせ」にあるらしい。

市内在住のH氏から下のメールを頂いた。ご参考までに一部掲載する。

「文献でたどる日本史の見取り図」(青春出版社発行、瀧音能之著)の44頁に「たとえば、くせの一例としては、新年号の扱いが指摘されている。それは、『六国史』の場合には、改元があったさいには年頭にさかのぼって新年号が用いられるのに対して、『類聚国史』では、改元されたのちの日付に対して新しい年号を使用している」と記しております。

菅原道真が類聚国史を編纂する際、いかに原史料尊重主義をつらぬいたかということを、ここでは書いているわけです。これからみると、明治政府が編纂した「大日本史料」は、元号についての扱いは、これまでの慣例により六国史方式の年号使用をとり、類聚国史方式を取らなかったことが判ります。おそらく、類聚国史方式の年号使用をとれば、史料の扱いに相当混乱をきたすため、取らなかったものと思われます。よって、史料綜覽(大日本史料の綱文集)も「慶長20年」がなかったことになります。おそらく、明治政府の当事者たちは、そのへんのことはよくわかっていたものとおもいます。しかし、現在の史家たちは如何でしょうか。

と教えて頂いた。

これで消えた元号の謎が解決した。





おっ!気がつけばもう初夏か。
今日は(4月24日)黄砂がひどい。山は完全にかすんでいた。

西アフリカのベナン共和国に海外青年協力隊員としてこの4月に赴任した姪から私の母宛に絵はがきが届いた。それを見て孫の事を案じる母は絶叫!
「まー! こんな所でYちゃんは!!!」
絵はがきの写真は、上半身半裸の現地の女性が泥で出来た家のそばで、果実を食べているものだった。(けっこう美人だったからモデルさんでしょうね)
取り乱した母をなだめ、切手に印刷されている大統領(だと思うが)を指して「おっかさん、ほらこの人はきちんとスーツを着て、ネクタイ締めてまっせ。この絵はがきはフジヤマ・ゲイシャ・ハラキリの日本のイメージと似たようなもんだす」
(あんたの息子も何十年か前モロッコに行ってたやんか)
おー、我ながら、説得力があるなー。
でも、アフリカは遠い、4月8日に投函したエアメールが宇和島に届いたのは4月24日でした。

3月になってから血圧が高くなった。おまけに目が疲れやすく、かすむ。
おおよその原因は想定できた。ストレスからであろう。4月に入ると眼の疲れは嘘のように消えた。
ストレスの原因が除去出来たからだ。ところが、新たな問題が出てきた。


気が付けば大暑も過ぎていた。
 6月末から、身の回りに様々な厄災が起こり、その対応に苦慮していた。すっかり消耗してしまい、唯一の気休めがサイトアップ
だったが、それも念願の伊達五十七騎を出したら、燃え尽き症候群になってしまった。

 手許にある書籍で角川書店版「姓氏家系大辞典」という太田亮氏の本がある。初版は昭和十一年だが、昭和三十八年に復刻された
その奥付にご子息の、太田通昭氏の面白い文章を見つけた。「書斎に籠もりっきりで、日露戦争が起こっていたことを全く知らずに研究を続けた学者がいたそうだ、父も同じように書斎にこもって研究を続けた」という下りがある。

 学者のある一面をかいま見た気がした。世間知らずとか、世情に疎いとか言われたら夫れまでだが、一途な情念を見た気がする。
南方熊楠は粘菌のサンプルを、身近にあった「キャラメルの箱」に入れて天皇に献上した、という話は有名だが、自己保身とか、
出世欲とは無縁で、己の知的好奇心に夢中になる、少年のような純粋さを持つ、こういう学者が私は大好きだ。

 今年は同級生Sの初盆だ。同級生の中でも一番若く見え、ハンサムだった医者のSが悪いという話を聞いたのは、ちょうど一年前だった。生きている間に会っておくべきだった。終焉は突然にやって来た。今年の初め彼の訃報がはいった。まさか、こんなに早く。これは同級生のだれもが思った事だろう。そして、次は自分の番では…………と。

私も夏が来るたびに、来年の夏を元気で迎えることが出来るだろうか、と思うようになってきた。自分で出来る限りの事はやって、あとはすべて天にまかせるしかないだろう。人生ってそれほど悪いもんじゃないさ。そう言い聞かせて何十年になるのか。今のところ良いか悪いかよく判らないままである。

 上甲監督の率いる済美高校が夏の県大会で二度目の優勝を果たした。昨年は春夏連覇はならなかった。上甲は夏の甲子園での優勝は経験していない。
いずこの高校も頂点を目指していることだろうが、なんとか彼の夢が叶うことを祈っている。

 私も何とか気力を奮おう。

【2005/7/29】


ようやく念願の伊達五十七騎の名簿を出すことが出来た。構想三十年、制作費百億、なにかすごい映画を作った宣伝文句みたいなことを考えたが、意識がモーローとなっている頭には、適当な言葉は浮かんでこない。でも、毎日、こつこつとデータを打ち込んでから何年過ぎたのだろう。

まだまだ不完全だが、これで少し気が楽になった。そう、思いついたのは、阿武さんから、コピーをもらった頃だった。何が転機になるかわからない。

 大勢の人がこの町を去る理由が改めて判った。昔見た、アメリカ映画の「スペンサーの山」「ラスト・ショー」「ギルバート・グレイプ」すべてに共通するのは、故郷を去る者と残る者の対比である。今の私に欠けているのはジミー・マッカーサーが、バスの中で見せた希望なのか。

 私の原点はどうやら、この映画にあるようだ。



【2005/7/2】

 


かなか前を向いて進む気分にならない。こういう時は休むべき時期らしい。
しかし、休むことが出来ない性分には難しい。

このところ、どうも調子が悪い。すべてにおいて。しばらく沈黙の状態でいよう。


 モニターの調子が非常に悪くなり、ついに新品に代えた。15インチから17インチにしたが、確かに見違えるようにきれいになったものの、中身は同じ。先日も知人から指摘された。曰く「モニターが綺麗になってからと言って、PCの性能は同じだ」と。

ごもっとも。CPUは266。Win98。時代遅れの骨董品だが、なんとか頑張っている。管理人はもっと骨董品の部類である。

11月16日、夕方、家の前が騒がしいので、表にでると「お亥の子様」でだった。急いでデジカメを持って撮し、夜にどうにか更新出来た。
最近はいろいろ野暮用で忙しく、あまりページ作りに時間がとれませんでした。そのためか、あわてていたためか、リンクを間違い、
何度もやり直し。リンク先に作っている、無料サイトのインフォシーク様から、アドレス変更の案内メールをもらったのは先日のこと。
その前日、そちらに置いているページのなかで、明らかな誤りに気が付き、訂正しようと更新をかけたら、接続出来なくなって、かなり焦った。

結論から言えば、サイト移行に伴う接続出来ない期間だったのだが。自分のFTPのやり方が間違っているのだと錯覚し、悪戦苦闘。気がつけ
ば単純な思い違いだったが、自分の早とちりには、我ながら愛想が尽きる。(11/16)

ここからかなりそちらの方にリンクしているので、アドレスの書き換えをしなければいけない。半年間は自動で接続先に飛ぶようにしてもらって居るが、リンク切れの無いように注意しなければ。

11月23日、天気予報では雨とか言っていたのに、晴天でした。突然思いついて、橋の写真を撮るために自転車で宇和島市内をわっせわっせと走った。午前中から、正午にかけて、写真を撮りまくり、汗びっしょり。帰宅すると、一気に10枚もページを作成。アップしたのは午後8寺頃。
眼はしょぼしょぼ。頭はガンガン。血圧が上がったようだ。そのせいか、耳鳴りが始まった。24日夜、まだ、私の頭のなかではセミが鳴いている。

★脳梗塞のせいでしょうか、怒りっぽくなった。テレビのニュースで、「さいたま市」 に 「見沼区」 という名前が出来ることに、住民が反対しているとか、報じていた。馬鹿野郎、と腹が立った。一人で怒った。曰く 「沼」という文字が田舎っぽい、ということが理由だそうです。田舎のどこがが悪いの。(?_?)
東京なんて、元をただせばほとんど田舎者の集合体じゃ無いか。日本から田舎が消えれば、どうなるんだ。
湘南の「鵠沼」なんて、田舎なのか。伊勢原市にも、沼目、という地名があるぞ。京都・河原町は荒れ果てた川原か?怒ればきりがないけれど、どうも最近の日本人というのは、近視眼的エゴが多すぎる。

都会なんて、田舎のおかげで食っていけるんではないか。さいたまなんて、東京に比べれば、田舎弁丸出しでしょう。私が東京にいた頃、宇和島出身者の方が遙かに埼玉県人より、標準語に近い言葉をしゃべっていたが。埼玉ではまだ、「−だっぺ。」 って言っているのでは?。
漢字が読めないから。埼玉を「さいたま」にしたんじゃなかったのでしょうか。いっそ、市も「し」にすれば、もっとわかりやすかったのでは。
未だに怒りさめやらず。また、血圧が上がった。

そう言えば、「愛南町」などという町が、愛媛県の南に出来るようだ。平成の大合併が日本文化をまた破壊するのだろう。愛媛県の南だから、そうなったのだろうが。もっと、由緒のある町名が欲しかった。

(少し冷静になって)
宇和島市では、かつて自らが抹消した、旧町名を表示する計画があるそうです。藩政時代には、花売り横丁、山伏町などという町名もあった。
昔は、通りに面した形で町名がつけられたようです。ブロックで町名を変えたことが、効率的だったのでしょうが、宇和島にもけったいな町名が出来た。京町、文京町、中央町、本町追手、栄町港。勘弁してよ。おかげで変な名前のマンションまで出来てしまった。「○○追手町」。
宇和島には、そんな名前の町などありませんぜ。

★間違っても、青葉町、若葉町なんて名前だけはつけないで欲しいものです。柳田国男が昔、明治の町村施行条例(たぶん明治23年ころか)公布で、合併の結果、奇妙な地名が合成された事を、嘆いていたそうだが。最近の人は、自分の住む土地に対する勉強が足らないだ。それは、言い換えれば、自分を知る事を知らないから、自分を大切にしないし、他人も大切にしない、その結果、異常な犯罪、事件が起こるのだ思う。エゴを通す事と、自分を大切にする、という事とは全く別問題だろう。

学校教育だけで、世の中は良くならない。ましてや、歴史教科書が社会を悪くした、愛国心の教育が必要だ、という問題とは全く次元が違うことだと思うが。

昔、道徳の授業が出来たが、それで日本は良くなったのだろう?自分を愛することは、同じく他人を愛する事であり、國を愛することは、同等に他国を見る必要がある。文化の異なる異国を、蔑視したりあるいは媚びへつらうこととも違うと思うのですがねー。

★先日、テレビで見た、野口英世の生き方。「人類のために生き、人類のために死ぬ」  今の学者先生に、学問はこういうものだと教えてあげたい。昔
の学問、研究は、ほとんどが人間を救うためのものであった。学問は「社会のため」であった。ところが、現在の学問は「社会ではなく会社=企業
の儲けのために行われている」 薬害エイズ問題の、阿部元副学長は、ミドリ十字のために研究をしていた。アメリカの医学は、ほとんどが製薬会社のため
の研究で、すぐに特許。銭(資本主義)社会では仕方ないか。
ほとんど愚痴になった、これは、ひとりごとだから…………。(11/23)

★先日は八幡浜市・保内町の合併に際し、旧地名を使用しない、と言う話しになったようだが、さすがに、全国公募という話しは、第一回目で結論を出すのは
早急すぎる、という事になったようだ。公募というスタイルが果たして良いことなのか。結局自分が責任を負う事がいやなのだろう。それを選考する人は、
全く責任も持たずに、こういう名前があります、如何ですか? と言うことで転嫁するのだろう。

★確かにしこりを遺さず、心機一転する意味では、全く無関係な記号にすれば良いのだろうが、なにか割り切れないものを覚える。テレビの影響で、中身より外見ばかりにこだわる傾向が強い時代になったが、本当にそれで良いのだろうか。


2002/2/5】


温泉で硫化水素ガスによる死亡事故か。私もずっと昔、十勝岳に一人で登る途中、濃霧で安政火口に迷い込み、こりゃ、やばい、と焦って引き返した覚えがある。


今年の冬はことの他寒い。12月に入ってから、雪混じりの曇天ばかり続いた。たまに晴天もあるが、かなり寒い北風の日が多い。どうしても気が滅入ってしまう。ようやく書店に注文していた本が来た。
正月はその本でも読んですごそう。あー、忘れてた。年賀状に一言、1月2日に宇和島でロケしたドラマ「君の知らないところで、世界は動く」の放送があるから見て下さい、と書くべきだった。




お、気がつけば立冬を過ぎていた。
そろそろ冬眠生活に入るとするか。

示板に関して、設置してはどうか、というご意見を頂くことがある。
確かに、それを交流の場所として、輪が広がることは結構だが、
逆に、それで意見が合わずに、論争の場になる事を恐れる。
建設的な論争であれば向上的に評価できるが、私は仮に十人の
仲間が出来るよりは、一人の知古が去る事を恐れるのである。
なにより、私は不精なので、管理出来ないのだ。



手許にある書籍で角川書店版「姓氏家系大辞典」という太田亮氏の本がある。
初版は昭和十一年だが、昭和三十八年に復刻されたその奥付にご子息の、太田通昭氏の面白い文章を見つけた。「書斎に籠もりっきりで、日露戦争が起こっていたことを全く知らずに研究を続けた学者がいたそうだ、
父も同じように書斎にこもって研究を続けた」という下りがある。

 学者のある一面をかいま見た気がした。世間知らずとか、世情に疎いとか言われたら夫れまでだが、一途な情念を見た気がする。南方熊楠は粘菌のサンプルを、身近にあった「キャラメルの箱」に入れて天皇に献上した、という話は有名だが、自己保身とか、出世欲とは無縁で、己の知的好奇心に夢中になる、少年のような純粋さを持つ、こういう学者が私は大好きだ。高野長英が逃亡生活を送りながらも、常に勉学、研究に取り組んでいたという事にも相通じるものを感じる。

 

TOP