階 段       by クリオネ@管理人

高木ワタルは急な階段を駆け登っていた。

随分長い階段で、登っても登っても上まで行き着かない。
息が苦しいが、上まで登らなければならない。

何故?
どうしてオレは、こんなに苦しい思いをしてまで、こんなことをしているんだろう?

そうだ。
オレは人を探していたんだ。

大切な人を。

その事を思い出した時、頭上から
「きゃっ!」という短い悲鳴や
「このぉ!」と言う押し殺した威嚇、
それに、砂利を踏む靴音や人が揉み合う音が聞こえた。

高木はその声や音がする方を見上げるが、
まだ階段を上りきった向こう側は見えない。

高木のいる場所と誰かが揉み合っている場所は、
まるで階段という壁に阻まれた別世界のようだ。


行かなくっちゃ。
階段を登り切らなきゃ…。

呼吸が苦しいが、ここで足を止めるわけにはいかない。

あと30段ほど

あと10数段・・・

その1段に足を乗せた時、彼女の頭が見えた。
次の1段で、彼女の肩と、その向こう側にいる凶悪そうな男の顔が見える。


あぁ、佐藤さんだ。

そうだった。
佐藤さんが、確保に向かった被疑者と争っているのだ。
オレは今、その現場に向かっているのだった。

なんでこんな大切な事を忘れていたんだろう?
息が苦しくて、頭がぼうっとしている。
でも…
頑張るぞ!


…あと少し。
佐藤さん、今、行きますからね!

高木が、あと数段で階段を上り切るということろまで来たその時…

男から突き飛ばされて、美和子の身体が階段のこちら側に飛び出して来た。

何故か高木の目には、それがスローモーションでも見るように映る。
まるで美和子に羽根でも生えて自分の方に、ゆっくりと飛んで来るように見えるのだ。

とても綺麗だ…

高木は悠長にも、そんな感想を抱く。

同時に、上まで登ったことで急に視界が開けた為か、
今まで見えなかった遠くの景色まで目に入って来る。

小さな街並みの向こう側に海が光っている。

一瞬の間に360度展望のように様々な映像が見えた。
空が突き抜けるように青い!


だが、そんな事に構っている暇はない。
高木は飛んで来る美和子を抱き止めようと大きく両手を広げる。

佐藤さんは、必ずオレが受け止める!
何としても、オレが受け止める!

次の瞬間…
高木の腕の中に凄い勢いで美和子が落ちて来た。

その途端、今までのスローモーションがOFFになり、高木はバランスを崩す。
そもそも、あの勢いで突き飛ばされて来た人ひとりを、そうそう抱き止められるものでもない。

高木は慌てて両腕で美和子の頭を抱きくるみ、身体を丸めながらも、何とか落ちまいとした。
しかし、既に高木の上半身は、その足が踏んでいる段より遥か後方に倒れようとしている。

だ、駄目だ!

高木は目を瞑り、頭をなるべく前に突き出して、後頭部を守ろうとした。
勿論、腕に抱き締めている大切な人は離さない。

目を瞑っているので見えはしないが、世界が反転するのを感じ、
やがて高木は背中を強く打った。
一度は頭が、ぐっと前につんのめり、その反動で後頭部をしたたかに打ってしまった。




「痛ってぇ〜〜…」

頭を押さえながら身を起こした高木は
自分の手の中に抱き締めていたはずの美和子がいない事に焦った。

「さ、佐藤さん?」
きょろきょろと周りを見回して、やっと、自分が本庁の仮眠室にいる事に気付いた。

「あれっ?」

どうやら高木は、その部屋で仮眠を取っていて夢を見ていたらしい。
しかし、後頭部を打ったのは事実で、
今、高木はベッドから頭から落ちたままの体制で、天井を見上げている。

しかし、息苦しかったのも確かだ。
夢の中で階段を上って息苦しくなるなんて…えらく現実的な夢だな。
と思いながら、
ふと目に入った自分の頭の横に落ちている物体を良く見てみると、
白鳥警部ご愛用の、ゴマフアザラシ型の抱きまくら「ゴマちゃん」だった。

高木はちょっとの間、何か考えながら、その「ゴマちゃん」を見ていたが、
とある想像の結果、慌てて手の甲で自分の唇を拭った。

「勘弁してくれよ〜〜。」
眉を八の字に下げて「ゴマちゃん」をベッドの上にポンと置く。

おそらく、これが高木を窒息させかけていた犯人であろう。


「…それにしても、佐藤さんを抱きとめた時の感触も夢とは思えなかったなぁ。」
胸の辺りを撫でながら、高木が呟いていると、
高木の死角だったベッドの上の方から、何かの影がひらりと飛び降りて来た。

そして、高木の手をぺろりと舐める。

「わわっ!な、なんだ、なんだ?」
じたばたしながら、まだベッドに引っ掛かっていた下半身をベッドから降ろし、
上半身を上に持ち上げて、正常な上下関係を取り戻す。

見下ろすと、巨大な雑種猫がゆっくりと尻尾を揺らしながら毛繕いをしている。

そうだった。
こいつも、この部屋にいたんだ。

みどり夫人が親戚の不幸で急に留守をすることになった為、
「2日間だけ、ここに置いてくれ」と目暮警部が連れて来た、目暮家の飼い猫の「ぷーちゃん」だ。

「もしかして、お前…さっきオレの上にドサッと乗っかって来なかったか?」
高木が疑いのまなこで問いかけると、
ぷーちゃんは、急にぷいっと向こう側を向いて、白々しくも黙秘権を行使する。

「ふっ、お前も甘いな。
刑事の目は誤魔化せないぞ?」

高木がぷーちゃん相手に、そんな尋問をしている最中、
枕元に置いていた携帯が鳴った。

発信者欄に『佐藤さん』と表示されている。

ハッとして受信ボタンを押すと、美和子の押し殺した声が聞こえた。
「高木くん?」
「はい。 本庁にいます。」
被疑者の尾行中だろうと思われるので、高木も声をひそめ、無駄な事は言わない。

「大山を見かけて尾行中。 
場所は倫敦公園と杯戸神社の中間地点。
来れる?」
「はい! 15分くらい掛かると思います。…大丈夫ですか?」
「大丈夫よ。まだ目的地も分らないし…。
じゃあ、お願いね。」

案の定、美和子は強盗殺人犯である大山の尾行中だったのだ。

高木はサッと緊張し、捜査一課へ急いだ。

「高木君、どうかしたのかね?」
夜勤明けで仮眠を取っているはずの高木が走りこんで来たので、
眉間に皺を寄せて書類に目を通していた目暮警部が驚いて顔を上げた。
そして、ハッとして立ち上がる。
「ぷーちゃんが何かしでかしたか?」

・・・・・・・・・。

しかし、
「佐藤さんが大山を尾行中です!」
という高木の報告を聞くと、目暮は速攻であちこちに指示を飛ばした。

その間、もう一度、美和子から連絡が入った。
その報告によると、大山が向かっているのは杯戸神社らしい。
目暮から美和子にも、包囲体勢が整いつつあることが伝えられた。

「警部。僕も現場に向かいます。」
高木は、じりじりしながら許可を取る。
「よし。行ってくれ、高木君。
白鳥君も別の現場から直行するそうだから、向こうで合流したら彼の指示を仰いでくれ。」
「はっ!」
返事をした時は既に、高木は駆け出していた。

グレーのスカイラインに乗り込んで、すぐにエンジンをかける。
無線のスイッチを入れて目暮警部との回線を開くと、高木はスムーズに車を発進させた。



杯戸神社の手前で車を止めた高木は、神社の裏手に向かっていた。

その神社は、マンションが立ち並ぶ一角の小高い丘に建っている。
すぐ傍に行くまでは、そんな場所があるようには見えないのだが、
そこだけが別世界のように緑に覆われていて、空気まで違うようだ。

都会の真中の緑だけに、周辺住民から喜ばれているかと思いきや、
丘の両側に位置するどちらも急な階段以外には境内に入る道もない所為もあるだろうが、
見上げるだに薄暗いイメージのする古い神社は、すっかり敬遠されて、
何かの行事でもない限り訪れる人影もない。

高木は、その神社の階段を上り始めた。
車を降りる直前に目暮に確認したところ、あれ以来、美和子からの連絡はないという。

代わりに…と言うわけではないが、
白鳥からは、数人の警官と共に現場に着いたとの連絡が入ったそうだ。
見たところ、それらしき人影もないので、彼等は既に境内まで上がっているか、
そうでなければ、高木とは丘を挟んで反対側にいることだろう。

急がなければ…。

高木は、苔むした階段を駆け上がりながら妙な既視感を覚えた。

あれっ?この階段は…?

はっきりと覚えてはいないが、先程見た夢で登っていた階段と似ている。
いや。階段自体が…ではなく、今の状況が似ているだけかもしれない。

高木の胸に嫌な予感が拡がった。

…佐藤さん。
無事でいてくださいっ!

階段を上がる高木は、途中から駆け足になっていた。

ある程度上まで上がると、
階段を被うように繁っていた木々の葉影が途切れ、
高木の視野の端にも、今まで見えなかった遠くの景色まで映るようになった。
遠くに小さく見える街並みの向こう側に、
高層ビルの壁面の強化ガラスが光っている。

なんだか…
階段を登るうちに別の空間に入り込んだような心地がする。


やがて、、高木の耳に、砂利を踏む靴音や人が揉み合う音が届いた。
…やっぱり、夢の通りなのか?

「大山っ、無駄な抵抗はやめるんだ!」
白鳥の声がする。

あぁ。白鳥さんたち、もう来ているんだ。 良かった!

あと数段で登り切るところまで来たし。
…と安心して、高木が足を緩めようとした その時。

「どけぇい、このアマぁ!」
高木がいる方の階段から逃げようと走り出した大山は、
その手前に立ちふさがった美和子に構わず突進しようとした。

美和子は大山の腕を捕らえ、その勢いを利用して相手を投げ倒したが、
身体の大きな大山を押さえることができないうちに反撃を受けた。

「きゃあっ!」
大山から突き飛ばされて、美和子の身体が階段のこちら側に飛び出して来る。

「佐藤さんっ!」
高木は両手を広げながらラストスパートを掛けた。

今度こそは…!

そう念じながら高木は、
タックルするように美和子を両腕に捉え、階段の上に向かって身を躍らせた。

ザザザッ
と、かなり派手な音を立てて、高木の身体は境内に転げむ。


やった・・よな?
オレ、佐藤さんを助けられたんだよな?

高木が自分の腕の中を確認してみると、
美和子の視線は真っ直ぐに
白鳥たちが数人掛かりで押さえ込んでいる大山の方へ向いている。

そして手錠の音がするのを確認すると
美和子は高木を見上げて満足そうに微笑んだ。
「やったわね。」

美和子に釣られて大山確保の様子を見守っていた高木は、はっとして身体を起こした。

「大丈夫でしたか?佐藤さん。」
高木が助け起こすと、美和子は微かに頬を染めて礼を言う。
「助けてくれて有難う、高木くん。」

「い、いいえっ。僕はただ…」
ここに至って改めて美和子を抱き締めた感触が甦る。
ばばばっ!と音を立てて高木の血が沸騰した。

一瞬で茹でたタコのように真っ赤になった高木に何故気付かないのか…
まるで追い討ちをかけるように美和子はチェックを始める。
「ごめんね、高木くんは怪我しなかった? 
あっ、手の甲、擦り剥けちゃってる。 膝や肘は大丈夫かしら?」

「あっ。だ、だ、だ、大丈夫です。」
慌てまくる高木が、必死で心配要らないと告げると、美和子は
「本当ぉ〜?」
と、少しの間、疑わしそうな目で見ていたが、
「…じゃあ、私、仕事に戻るわね。」
事後処理に加わるべく、白鳥達がいる方へ向かって行った。

途中でちらっとこちらを振り向いて、小さく手を振った美和子に、
高木は顔を赤らめながら更に小さく手を振り返す。

その手を降ろして、幸せそうにえへへっ・・・と笑ったその途端、
高木はぞっとするような冷気を感じて、そっと後ろを振り返った。


そこには…
案の定、世にも恐ろしい顔をしたコワモテ刑事たちが、
恨めし気な目をして、じとぉ〜〜〜〜〜〜〜〜〜っと高木を睨んでいる。

声には出さないが、その視線が何を語っているのか高木にも分った。
(高木。 今、お前…美和ちゃんを抱き締めたよな?)
(結構、長く抱き締めてたよな?)
地の底から響くような声が聞こえた気がする。


ゴクリと生唾を飲み込んだ高木は、見なかったことにしようと天をふり仰いだ。

頭上には、まるでそこだけポッカリと周のを木々を切り抜いたように青い空が拡がっている。

雲ひとつ浮かんでいない夏色の空が、夜勤明けの高木の目に眩しかった。