彼女は一生懸命走っていた。


 職業柄「走る事」は日常茶飯事で、
 「一生懸命走る事」も必須ではあるのだが
 仕事中は通常、沈着冷静の身に付いている彼女が
 慌てて疾走する事は少ない。

 だが、


 今はそうではなかった。



 (しまったぁ〜!)
 心の中で繰り返しながら本庁の廊下を彼女は走る。


 本庁捜査一課強行班3課係、敏腕女刑事佐藤美和子警部補ともあろうものが、
 こんな思いもよらぬミスをしてしまうとは、全く持って不覚。


 (ああ、もうっ。間に合うかなぁ…。)
 付随する困難を打開する為に、



 彼女は走る。




 +++見 本+++       by yu-kaさん


 佐藤がそのミスに気付いたのはつい先刻の事だ。
 強盗傷害事件の現場で捜査と検証を一通り終え、
 採取した証拠となり得るかもしれない数点の物品を持ちかえり
 鑑識課を訪れていた。


 「トメさん、さっき電話でお願いしたの、これなんだけど。
  私の推理だと絶対これがあった辺りに負傷した犯人の血痕があると思うの。
  もしそれが検証されれば既に絞りこまれた被疑者の嘘を崩すきっかけになるわ。」
 「なるほど。さすがに美和ちゃんらしい目の付け所だ。早速ルミノール液ぶっかけて
 すぐにワシが白黒つけてやろう。」
 「やっぱりトメさんは頼りになるわね。」
 「鑑識一筋ウン十年、トメに不可能は無い。ちょっとそこで待ってな。じきに戻る。」

 トメさんは自分の胸をドンと叩くと、
 佐藤の手渡した小さな黒い桶を持ってドアの向こうへ消えていった。


 それにしても、事件の真髄を切り崩すかもしれない証拠物件が
 あんなものに入っているなんて…
 ちょっとマヌケだわね。

 彼女がぷっと吹き出していると
 「おぃ、美和ちゃん。」と、早くもトメさんがドアの向こうから顔を覗かせた。

 「んっ?もう出来たの?トメさん、ちょっと早すぎな…。」
 「いや、そうじゃなくて、これ…ひょっとして間違ってないか?」

 彼は苦笑しながら、桶を佐藤の方へ突き出した。

 「…えっ…?」
 彼女は数歩進み出て、ラップの外された桶の中身を覗きこむ。
 …その顔色がサッと変わった。

 「こ、これはっ。…じゃあ、3係のデスクに置いてきた方が、まさか…!?」


 (嘘、…間違えた?)
 彼女は速攻でトメさんにぴょこんと頭を下げると
 「また来るわ!」
 と一言言い残し、慌てて鑑識課を飛び出した。



 (もうっ、大将があんなものまで無理矢理持たせるからややこしい事に!)





 彼女をこれほど焦り、走らせる「あんなもの」とは何か。

 それは事件現場、米花町商店街の一角に位置するある店での
 数時間前の出来事に現れていた。


 病院で治療を終えて戻ってきた被害者であるその店の大将が、
 壊れたショーケースの中から証拠物件を回収しようとしている
 佐藤の傍へやってきた。

 「いやー、刑事さん。色々世話かけちまって。」
 大将は深々と頭を下げる。

 「いえ、その程度のお怪我で済んで、本当によかったです。
 被疑者は必ず我々が逮捕しますので、ご安心下さい。」
 「勿論、俺は優秀な日本警察を信用してるぜっ!」
 そう言いながら大将は、
 白い手袋の上に2つ、3つと
 散乱している物を拾い集める彼女の手元をジッと見た。

 「おや?それを持って帰るんで?」
 「ええ、証拠物件として暫くお借りします。
 ご商売に不都合かと思いますが、協力して頂けますね?」
 「あぁ、おやすいご用さ。いくらでも持ってってくれ。おっと、入れ物…これ使いな。」
 「これに…ですか?」
 「きれいに洗って消毒済みだから全然問題ねぇだろ。ささ、遠慮せずに!」
 「…ご、ご協力感謝します。お借りします。」

 佐藤はちょっと悩んだが、差し出された桶を受け取り
 回収した物を一つ一つその中に綺麗に並べた。


 すると、一旦奥に引っ込んだ大将が再び現れて
 もう1つ、桶を彼女に差し出す。

 「こいつも持ってってくれ。世話になったお礼だ。」
 「困ります、私達は自分の仕事をしているだけです。こんな事をされては…。」
 「こんだけ世話になっておきながら、礼もしねぇなんて俺の気が済まねえ。
 それに、これは負傷した腕で一生懸命用意したんだぜ?
 刑事さんはその好意を無駄にするような、人情無しのお方じゃないはずだ?」

 見るからに頑固一徹な職人肌の大将に、これ以上遠慮を申したてても
 時間が無駄になるばかりだと踏んだ佐藤は、
 「…わかりました。有難うございます。」
 と、桶を2つ抱えて本庁に戻ることになったのだ。





 しかし、その「もう1つの桶」が「あんなもの」となって彼女に失態をもたらすとは…
 人の良いあの豪快な大将は全く夢にも思わなかっただろう。

 だが、
 彼を責めるべきではない。

 それは彼女もよくわかっているのだ。


 結果的に外見が全く同じになってしまった
 2つの品を佐藤が取り違えてしまったのは不幸な偶然だ。




 (でも、…やっぱり持って帰るんじゃなかったわ)

 ちょっと後悔しながら彼女は走る。


 容易に予測できるであろうその結末を阻止する為に
 …走る。





 まずい。
 まずいわ。
 あんなものが無造作にデスクの上に置いてあったら…。

 絶対彼が目をつけないわけが無いじゃないっっ。



 大事な証拠物件。
 お願いっ


 無事でいて…!!





 祈りながら息を切らして捜査一課に駆け込む佐藤が見たものは…
 皮肉にもまるっきり予想とたがわぬ光景だった。

 彼女は目を見開いて、
 心の中で「あーーーーーっ!」っと叫ぶ。


 3係のデスクまでがあんなに遠い。


 必死で足を動かしているはずなのに
 何故か景色はスローモーション。




 …とうとう彼女は叫んだ。

 「ま、待って千葉くんっ!! それはお寿司の…」






 「見本よぉーーーっ!」



 彼女のその叫びとほぼ同時に、
 にんまりと寿司桶を抱えた千葉刑事が、
 大きく開けた口の中にプラスチック製のエビのにぎりを
 ポイっと放りこんだ。



抱腹絶倒という言葉がありますが、まさに、そのもの。
 一人、こっそり台所で読んでいたのですが、
大書された「見本よーーーっ!」に、
けたたましい笑い声を発してしまいました。
いや、もう、何というか、一押しの大笑いでした。
このおもしろさ、最高です!!
 byう〜さん
(2003/11/18)