***その向こうへ***



 四歳の誕生日に、大好きなおばぁちゃんが、小さな自転車を買ってくれた。
 嬉しくて、嬉しくて、毎日それに乗って遊んでいた。
 それは、4月初めの、静かに晴れた日のこと。
 暖かくなった風が気持ちよくて、私はいつもより遠くへ来てしまった。
 そこは、集落の外れにある、鎮守の森。
 お父さんや、お母さんと、時々遊びに来ることはあったけれど、一人で来たことなどなかった。
 大きく、覆い被さるように葉を茂らせていた木々は、今思うとクスノキだったのかも知れない。
 ふと、誰かに呼び止められたような気がして、自転車をこぐのを止めた。
 石造りなのに、その存在をちっとも主張しない鳥居。その向こうに、続く石畳。
 そして、その向こうへと目をやると、・・・何かが止まったような気がした。
 それは、風だったのか、時間だったのか・・・。
 小さな神社の筈だったのに、その向こうには、静かで暖かな暗がりが、ずっと遠くまで続いているような気がして、そこから動けなくなってしまった。
 「・・・」
 肌をくすぐる風が吹き抜け、遠く高いところで木々のさざめく音がした。
 けれど、それとは別に、やはり石畳の向こうの暗がりから、誰かが私を呼んでいるような気がして。
 誰もいない、小さな鎮守の森。
 暫く、そこにじっとしていたのだけれど、聞こえない呼び声を聞いていたのだけれど、やがて、そのまま家へと引き返した。
 怖さも気味の悪さもなかった。ただ、胸に残る不思議さ。
 そして、それは幼い私の、最初の秘密になった。



 ふと顔を上げると、静かに話を聞いていた穏やかな瞳が私を見つめていた。
 少し、怖くなって、私はそっと視線を逸らす。
 ・・・また・・・かな。 
 私の中を通り過ぎた幾人かの男達が、胸をよぎり、心がきゅっと締めつけられる。
 鼻で笑った人、いきなり分析を始めた人、聞き流した人・・・。
 私の大切な、最初の秘密は、もう、色あせてしまったような気がするのに、こうして、また、口にせずにはいられなくて。 
 ・・・まるで、踏み絵みたい・・・そんなふうに、人を試している自分が、なんだか傲慢な気がしてしまうのに、話さずにいられない。
 一体、幾度「さよなら」を告げてきたんだろう。 
 最初の秘密を聞いた人達の、その反応が、私を彼らから遠ざけた。
 ・・・このぬくもりも、また、私の求めていたものとは違うのだろうか。
 私の髪を弄んでいた指が止まる。
 視線を戻すと、私の首を支えていた彼の腕が、私をその胸の中に引き寄せた。
 「・・・うん。」
 ひとこと、そう言って、私の肩に顔を埋める。
 「・・うん・・ってしか、言えないんだけど・・・さ。・・・もっと、なんか、言いようがあるんだろうけど。・・・大切な思い出・・・なんだな。」
 そして、腕をゆるめると、柔らかな笑顔で私を見つめてくれた。
 「俺の反応が、怖かったか?」
 いきなり図星を指されて、一気に顔に血が上る。
 「ご・・ごめんなさい。・・・でも、どうして?」
 くすっと彼が笑みをこぼす。
 「鼓動が凄かった・・・。」
 
 「大切な思い出を聞かせてくれて、ありがとう。」
 そう言って、何も言えなくなってしまった私に、彼は小さなキスを落とす。
 「ん?どうした?」
 もう一度、彼を見つめたとき、私の胸の中は今まで感じたことのない熱に震えていた。
 「ううん、なんでもない。」
 「そう?」
 少し窺うような表情を見せてから、そっと私を抱きしめると、彼がゆっくりと言葉を紡ぎだした。 
 「今度は、一緒に歩いてみないか?」
 「え?」
 「その道。」
 「あ、でも、そんなこと、もう、ないんじゃないかな。」
 あれきり、声なき呼び声を聞くことはない。 
 「そうか?この先、いつかは、そういう瞬間に出会えるかも知れないじゃないか。」
 「でも・・・」
 と言いかけて、私はふと彼を仰ぎ見た。
 「・・・この先・・・?」
 彼がじっと私を見つめる。その瞳に浮かぶ、拗ねたような、乞うような色。
 「・・・一応・・・プロポーズなんだけど。」
 その顔に、今まで見たこともない照れくさそうな表情を浮かべて。
 「・・・」
 その瞬間、心の中に、あの光景が浮かんだ。 
 遠く続く、石畳のその向こう。
 見えない扉が開いた気がして・・・
 「うん。」
 そう、口にすると、不思議と、体中から力が抜けていった。
 今まで気付かなかったけれど、それは、誰に対しても構えていた、頑なな心。
 彼の胸に顔を埋めると、静かに涙がこぼれ出す。
 まるで、余分な力を洗い流してゆくように。
 そして、胸一杯に幸せな想いが広がってゆく。
 「うん・・・一緒に、歩こう・・・。」
 あなたと一緒なら、きっと私はいつでも、見えない扉を見つけられる。 
 心の奥底に眠る遠い呼び声も、いつか、また、聞こえることがあるだろう。
 だから、一緒に歩いていこう。
 ずっとずっと、その向こうへと・・・。

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最初は、小さな女の子が鎮守の森の前で体験する不思議な話だけだったんですけど。
因みに、その鎮守の森には、コノハズクというフクロウが棲んでいるそうです。
・・・それ以外は、フィクションです。念のため(笑)
(2002.6.21)