::::: 新一 ::::: 暑い・・・ 書庫から出た途端、丸くのしかかるような暑さに包まれた。 昨夜からかかりきりになっていた資料がようやっとまとまり、俺は肩や首をぐるぐる回しながら、空調の利いた部屋をあとにした。 漂ってくる、ガーリックの香に、足は自然と台所へと向く。 「蘭・・?」 しかし、そこに蘭の姿はなかった。 ガス台の上に、ぽつねんと佇む鍋の蓋を開けると、トマトベースらしい、赤くぐしゃぐしゃしたものが入っている。 うまそ・・・ 夕食は、これか。 そういえば、なんだか、色んな野菜を細かく切ってたっけ・・・。 開け放った窓から、熱っぽい風が吹き込む。 梅雨が明けきらないのか、大気が不安定で、ごうごうと風が吹いている。 しかし、暑い・・・。 コーヒーでもと思ったが、あまりの暑さに、その考えは却下して、冷蔵庫を開けた。 心地よい冷気が流れ出て、ほっとしたものの、目に付いたボトルを手に、慌ててドアを閉める。 タンブラーを二つ取りだし、手にした、ガラスボトルから、茶色い液体を注ぐと、両手に一つづつ持って、リビングへと足を踏み入れた。 「蘭・・・?」 そこにも蘭の姿は無かった。 どこ行ったんだ? 買い物にでも行ったのだろうかと、思ったとき、テラスでばさばさと本のめくれる音がした。 籐でできたリクライニングチェアの向こうに、頭が見える。 「蘭・・・いるなら返事くらい・・・」 突然吹き付ける熱風が、俺の言葉を呑み込む。 風に煽られた髪をそのままに、蘭はかわいい寝息をたてていた。 サイドテーブルに麦茶のグラスを置くと、傍らの椅子に腰掛ける。 気だるいくせに、木々だけが妙に騒がしい午後。 ある意味、正しい夏の休日の昼下がり・・・だよな、なんて事考えながら、俺は蘭の寝顔を肴に、冷たい麦茶を流し込んだ。 時折吹きつける、熱い風の塊に、その時だけ、汗が引く。 空調で慣らされていた身体が、次第に自然のリズムを取り戻していくのがわかる。 ふと、呼ばれた気がして、蘭を見た。 ・・・気のせいか? ふんわりと閉じられた目は、開く気配を見せない。 「・・・んいち・・・。」 しかし、その唇は、確かに俺の名を呼んでいた。 「蘭・・?」 問いかけてみるが、反応はない。 ・・・?立ち上がって、その顔を覗き込むと、もう一度、その唇が開いた。 「しん・・・ぃち。」 寝言か? まじまじとその顔を見つめると、微かに胸が引き絞られる。 ・・・どんな夢見てんだよ・・そんな辛そうな顔して。 夢の中まで入ってはいけないけれど、そんな蘭の心を抱きしめたくて、俺はそっとその唇に、自分の唇を重ねた。 ゆるくついばむと、「ン・・・」という声と共に、蘭が応えてきた。 驚いて、ほんの少しだけ顔を離してみたけれど、まだ蘭は目覚めない。 ・・・無意識に? そう思うと、今度は体の芯に、小さな火がついた。 もう一度、静かに、けれど包み込むように口づけると、再び蘭が応えてきた。 ・・・こんな風に、蘭が応えてくれたのは初めてのこと・・・。 小さくともった火は、蘭に煽られて、徐々に大きくなる。 リクライニングチェアに腰をかけると、俺は、夢とうつつを往き来するような、軽やかな口づけに夢中になった。 「ん・・・・・」 うっすら目を開くと、そこに光。 一瞬、風が止まる。 「新・・・一・・・。」 とろんとした目が、やがて覚醒すると、なんだかむしょうに照れくさくなってきた。 ・・・寝込みを襲っちまったわけだし・・・。 突然、ばさ・・・と音がして、蘭の膝から、雑誌が落ち、その上にのせられていた腕が、俺の首に回った。 「蘭・・・?」 その唐突な行動に、さしもの俺も一瞬とまどう。 「夢を見てたの・・・。ゆめ・・・。」 そう言いながら、なおも、俺の胸に顔を押し付けてくる。 「・・・良かった・・・。」 微かに、涙声。 「どんな夢見てたんだ?」 長い髪を手で梳きながら、再び吹き始めた風に身を委ねる。 「この前・・・プラネタリウム行ったじゃない・・・。」 「え?あぁ、あの、特別プログラムってやつ?」 「うん。で、オルフェウスとエウリディケの話を聞いたでしょう?」 ちらっと蘭が俺を見上げるから、俺はくすっと笑った。 「俺が振り向いちまう夢でも見た?」 けれど、蘭は、首を横に振った。 「私が新一を迎えに行った夢を見たの・・・。 長くて暗い道を歩いているんだけど、足音も聞こえなくて、本当に、新一がついてきてくれるかわからなくて・・・『新一』って呼んでも、返事が無くて。振り向きたくて、仕方ないのに、振り向いたら新一はいなくなるって、思ったら・・・。」 声を詰まらせた蘭を、俺は思わず抱きしめた。 「もう・・一人にしないから・・・。」 それだけしか言うことができなくて、俺はただただ蘭を抱きしめた。 何事もない日常を過ごしていたら、あの悲劇は、単なるギリシャ神話の中の一つだったはずだ。 けれど、コナンとなって傍にいたとはいえ、二人の間には、手を伸ばしても届かない時間が存在したことは消しようが無く、蘭の心の中で、この悲劇が現実のものとだぶってしまったのは、当然のことだったかも知れない。 「もう、絶対、一人にしないから・・・。」 もう一度呟くと、腕の中で、蘭が頷いた。 「うん・・・。それでね、明るいところに出ても、私、怖くて、振り向けなかったの。オルフェウスみたいになったらどうしようって。そしたら・・・」 俺は、腕をゆるめた。 「そしたら・・・?」 「新一が・・・」 俺を見上げた蘭が、ふわっと頬を染めた。 「俺が・・・?」 段々、蘭が頬を染めていく・・・。 何となくその先がわかるのは、・・・別に、俺が探偵だからじゃないだろ。 「蘭・・・。」 甘く囁くと、小さく肩が跳ねる。 やがて、どちらからともなく瞼を閉じて、・・・俺達は夢の続きを見ることにした。 それは気だるい夏の午後。 サイドテーブルには、麦茶のタンブラーがたっぷり冷や汗をかいていた。 ......................................................................................................................................
これを書いたのは、うだるような暑い休日の午後。 そして、夕食は、蘭ちゃんが作ったものと同じものでした。 さて、それは何だったでしょう?(笑) 999を踏まれたわかなんさんへの捧げものです。 |