Pass Word




(1)


 思わずドキッとした。 
 自分の名を呼んだ声の主が、学生鞄を持たない腕を、背後から抱きしめたから。
 咄嗟のことに、ポーカーフェイスを繕うこともできず、思いっきり顔をしかめ、つっけんどんに応えることで、黒羽快斗は照れくささを辛うじて隠した。
 「快斗、おはよう。・・・どうしたの?」
 「どうしたのって・・・おめぇは、毎度毎度、朝っぱらから脳天気だな。」
 「脳天気って・・・ひっどぉい。」
 ぷぅっと頬を膨らませてしまった幼馴染みに、ちらっと視線を走らせながら、快斗はくすっと笑みを漏らした。
 「今日は一段と・・・」
 かわいいな・・・なんて、そんなこと、思ってたって、口にできるわけじゃない。
 もう10年以上も、傍にいて、いつも見つめていたけれど、彼女が自分にとって特別な人間なのだと気付いてからは、眩しくて、胸がときめいて。
 それなのに、相手の方は相変わらず、子供の時のまんまの明るさと気安さで接してくる。
 ・・・ったく、不用意に体をくっつけてくるなよ。
 微かなやわらかな感触が、彼女が離れた後も、腕に残る。
 「脳天気に磨きがかかってるな。」
 「ふ〜んだ。いいよ、どうせ快斗は覚えてくれてないんでしょう。」
 少し寂しそうな表情を見せた彼女に、えっ?と思う。
 「今日は、青子の誕生日だよ。」
 すねたような目で見つめられて、複雑な思いが交錯する。
 「そっか、おめぇ・・・今日誕生日だっけ。」 
 「そうだよぉ。」
 「じゃ、あれか。昼から、また、検査・・・か。」
 そう言いながらも、内心しまった・・・と思っていた。
 少し前までは、確かに覚えていたのだけれど、とんだ飛び入りが入ってしまって、すっかり忘れてしまっていた。
 「うん。」
 と言ったきり、口をつぐんでしまった彼女に、心の中でため息をつく。
 「今日は・・・親父さん、遅くなるんだっけか・・・。」
 「知らない。」
 「・・・今日、予告日・・・だっけ?」
 その言葉に、青子は視線をふいっと横に逸らせた。
 「そうだよ。・・・んっとに、キッドのバカ。普段から、ろくなことしてないけど、なんだって、こんな日に、予告状なんか出すんだろう・・・。」
 ・・・そりゃ、おめぇ、めちゃくちゃ期間限定で、突然ビッグジュエルの公開なんかするやつが悪いんだよ・・・とは、口が裂けても言えない快斗は、
 「親父さんについていって貰えないわけね。」
などと、からかうことで、話題を逸らすことにした。
 「なっ・・・青子だってねぇ、もう大人なんだからね。検査くらい、自分で行けるわよ。」
 快斗の思惑通り、青子は、ムキになる。
 「へぇ。大人ったって、見かけはまだまだガキンチョだぜ?」
 「どこがよっ!」
 「このへんっ♪」
 と、手にした鞄で、スカートをめくりあげると、ものすごい悲鳴と共に、びんたが飛んできた。
 「・・・ってぇ」
 じんじんする頬を押さえながら、怒ってずんずん先に進んでいく青子を、自嘲の笑みは隠したまま、快斗は優しく見つめていた。
 「ったく。本当に、よりによって、こんな日にな・・・。」

2

 かつて、彼の父親は鮮やかな手口で優雅に宝石を盗む怪盗キッドだった。
 その現役時代、当然、快斗は事実を知らない。
 しかし、父親は本業のマジックのリハーサルの最中に、突然事故死してしまった。
 それ以来、キッドが世を騒がせることはなかったが、8年後、17歳になった快斗は、父が残したからくりで、事故だと思われていた父親の死が、殺人の可能性が極めて高いということまでひっくるめて、すべての事実を知った。
 そして、今、父親の遺志を継ぐべく、怪盗キッドとなった。
 世界の至宝と呼ばれる、ビッグジュエルのパンドラを探し出し、完全に叩き潰すこと。
 ・・・そして、青子を守ること。
 なぜ、父親がそんなことを言い残したのか、彼にはわからない。
 子供心に快斗が、青子に惚れ込んでいたのを気付いていたのかもしれない。
 なにせ、「世界中の女性を魅了する」と言われたキッドだったのだ。
 それくらいのことは、本人よりもお見通しだったとも言える。
 その青子の父親である中森警部は、警視庁捜査2課のキッド専属警部として、もうかれこれ十年以上キッドを追っている。
 どこまでも、父親が1番な青子に、時折、苦いものがこみ上げることがあるが、快斗は、父親と同じく、しっぽをつかませるようなことは決してなかった。

 大学受験や、就職試験が現実的なものとなってちらつく、高校3年の2学期。
 その日も、それまでとは変わることのない、平凡な1日だった。
 17年間、ずっとそうだったというように、青子は午後の授業を早退した。
 何の検査をするのか、快斗はよく知らない。
 ただ、誕生日には、検査をしなければならないのだと。
 青子は、「学校の健康診断とあまり変わらないよ。」と言ったきり、それ以上詳しいことを話そうとしなかった。
 快斗も、突っ込んで聞いたことはなかったが、ただ、心の中に、時折浮かぶ不安のようなものがある。
 それは、一度見かけた、青子を連れて病院へ向かう警部の顔だ。
 母親を早くに亡くしてしまったという青子を、警部はいつもにこにこと見つめていたのに、そのときだけは、ひどく難しい、険しい顔をしていた。
 もちろん、青子がそれに気付いた気配はなかったけれど。
 「・・・そんなに、難しい病気を抱えているようには見えないんだけどな、あいつ。」
 日頃、快斗とかなり激しい鬼ごっこしてるけど、体力的にも平然としている。
 どちらかといえば、この年になって、鬼ごっこをしているということの方が、問題あるのかもしれないのだが。
 残暑もずいぶんましになってきて、日中かなり凌ぎやすくなってきた昼休み、快斗は弁当を食べながら、正門へと向かう青子の背中を、窓から見送った。
 頭の中では、当夜の侵入および逃走経路を描きながら・・・。



 警察病院に併設されたその建物は、「健康センター」と呼ばれていた。
 人間ドックや、特殊な検査をする部屋が幾つもあり、ドックの指定日は比較的にぎわっているが、そうでない日は、しん…と眠っているようだった。
 この建物、意外に奥が深いということは、知られていない。
 そして、通常見かけるスタッフ以外に、人員がいることも知られていない。
 病院スタッフには違いがないらしく、全員、白衣を身につけている。
 彼らは、外からは存在がわからないところで、毎日、研究を重ねていた。
 もちろん、何の研究がなされているか、関係者以外、知る者はいない。
 すっかり日が暮れてしまい、空には明るい月が出ていた。
 そんな時間だから、普段から静かなそこに、尚更、人気がない。 
 と、その自動扉が開いて、中から人影が現れた。
 月明かりに照らされるその影は、どこか、現実味がなく、揺らめいている。
 だが、夢の中のような足取りのその人影は、確かに、帰路をたどっているようだった。
 それを見つめる人影が屋上に一つ。
 風が吹くと、青い月影に色素の薄い髪が翻った。
 その人物は、去りゆく人影が、角を曲がり姿が見えなくなると、軽い、けれど、絶望に似たため息をもらし、やがて、ゆっくりと建物の中に姿を消した。



3

 「追えーっ、奴だっ怪盗キッドだ!」
 中森警部のがなり声が響き渡る。
 その声を後にしながら、快斗は周囲に気を配っていた。
 警察は、まだいい。
 彼らは捕まえても、殺しはしないから。
 問題は、そうでない連中。
 今し方、手に入れてきた石を注意深く、月にかざす。
 美しいダイヤは、月の光を幾つも散らして見せた。
 「ちっ、また、はずれかよ。」
 愚痴たところで仕方がない。
 世界を手に入れることができるという石、パンドラは、この世に一つしかないのだから。
 世界を手に入れられるというふれこみの石を、当然、欲しがる連中もいるわけで。
 いくら、快斗が検分をしたところで、はいそうですかと、それを鵜呑みにするバカな奴らではない。
 IQ400の頭脳を駆使し、18歳という若い体力でもって盗み出したものを、ちゃっかり横取りしようという連中は、当然、快斗を「おとなしく」させてからでなければ、石を手に入れることはできない。
 ということで、手に入れた石も、自分の命も、狙われるというわけだ。
 しかも、そう言う連中が、一手、二手で済むわけではない。
 恐らく、快斗がパンドラを見つけるまで、息を潜めている連中も含めれば、相当数の連中が、狙っていることになる。
 快斗は、石を胸のポケットに入れると、辺りを見回した。
 今日は、急だったせいもあってか、どうやら、狙撃手のいる気配はない。
 僅かに、顔を上げ、風を読むと、ビルの貯水タンクから飛び降りた。
 その体が緩やかに落下し、背中のグライダーが羽を広げると、一気に上昇する。
 うまく風に乗った快斗はそのまま、ビル街を抜ける。
 と、その時、見慣れた姿が目に入った。
 どことなく、頼りない足取りではあるが、歩道橋を登るのは、間違いなく、青子だ。
 「今頃、終わったのか?」
 随分、遅いじゃねぇかと、思った瞬間、青子の体がぐらりと傾いた。
 「危ないっ!」
 思わず降下すると、表情のない、虚ろな青子の顔が見えた。
 ・・・なんだ?
 心の中に警鐘が鳴る。
 目は確かに開いているが、どう見ても、意識ある目ではない。
 「しゃあねぇな、送ってってやるか。」
 何故、そんなことを思ったのか、快斗自身わからなかったろう。
 意外に今日の仕事が簡単だったのと、狙われている様子がない、という安心感、そして、青子が、夢遊病のような状態で歩いている、という不自然きわまりない状態が、彼の判断能力を狂わせたのかも知れない。
 ・・・いや、単に、彼女が絡んでいたから・・・というべきか。

4
 キュンッ!
 静かだが、人を戦慄させるに充分な音が、快斗の脇をかすめた。
 「・・・いたのか?」
 その日の狙撃手にとって、彼の油断は、棚からぼた餅だったに違いない。
 しかし、当たるはずの弾は、不規則な風のいたずらで、僅かにそれた。
 どうやら、間に合わせらしい。
 本格的に狙われれば、弾丸が快斗を貫くのも時間の問題だったろう。
 不用意に屋上から銃を撃った奴に向け、快斗は閃光弾を放った。
 派手な花火つき。
 ぴりぴりと緊張しているパトカーの音が、景気良く反応する。
 間抜けな狙撃手は、その音を聞くと、瞬く間に姿を消した。
 その隙を逃さず、快斗は、歩道橋をふらふらと歩く青子をかっさらう。
 「・・・っと、重量オーバーか?」
 しかし、うまくビル風を捕まえ、辛うじて上昇。
 ビルの陰を利用することで、まんまと、パトカーの群もまくことができた。
 腕の中の青子は、微かにもがく気配を見せたものの、しっかり抱きしめると、おとなしくなった。 
 かといって、この状態は、決して良い体勢とは言えない。
 快斗は、ポケットからベルトのようなものを取り出すと、器用に青子に掛け、自分とパラグライダーに縛り付けた。
 「ん、これで、OK 。」
 時折、青子の長い髪が風で煽られ快斗の頬を叩く。
 目を細めながら、くすりと笑みを漏らしつつも、快斗の心の中には、言いようのない不安がわき上がってくる。
 「今まで、こんなに遅いってこと・・・なかったよな・・・?」
 もしかして、病気(・・・検査というので、そう思っているが)の具合が悪いのだろうか。
 それにしても、この酩酊状態は不自然だ。
 何か、薬物を投与されたのか・・・?
 不安は拭い去れないが、今は、詮索している場合ではない。
 用心深く、迂回をしながら、快斗は、人気のない一軒の家のベランダに降り立った。

5
 青子を抱いたまま、ベランダから彼女の部屋へと入ると、すぐに鍵とカーテンを閉める。
 ・・・もうちょっと、厳重な鍵つけとけよ・・・などと思いながら。
 彼女の匂いに包まれて、ほっとした途端、どっと疲れが出てきて、思わず膝をつくと、目の前には、意識を取り戻した、青子の瞳があった。
 至近距離で見つめ合って、息が止まる。
 ずっと傍にいたけれど、こんなに近くで、見つめたことってあったっけ。
 キッドの装束に身を包んだまま、何も言えずに、その瞳に引き込まれていた快斗は、青子の目が少し見開かれたことに気付いた。
 「快斗・・・。」
 それと同時にこぼれる、驚いた声。
 とっさに逃げようにも、彼女の命綱が、それを許さない。
 しゅるる・・・という、ロープが収納される音が空しく響く中、快斗は、そっと、深呼吸をした。
 ・・・中森警部に使った手は、まだ、有効だろうか?
 以前、ばれそうになったときは、青子の変装をして、ごまかせた。
 「似ていますか?」
 その声に、白いタキシードの襟首を掴んでいた、青子の顔に、多少の怯えが走る。
 「・・・快斗じゃ・・・ないの?」
 「私は、怪盗キッド。百の仮面と声を持つ男です。」
 できるだけ、甘い声で、囁いてみる。
 いつものぞんざいな快斗は、微塵も感じさせないように。 
 青子は、青子で、頭の中が、すっかり混乱していた。 
 少ない視界を見回すと、それは間違いようもなく自分の部屋。
 今日は、確かに、誕生日で、いつものように、病院で検査を受けたはずなのだが、帰宅の道中の記憶がない。
 そして、自分の視界の大半を占めているのは、今宵、父親が追っている筈の人物。
 快斗自身にしても、ここは、正念場だった。
 ポーカーフェイスは、仕込まれたものの、胸の鼓動は、コントロールできるものではない。
 快斗は、青子が手を離すまで、粘り強く待った。

 見つめ合う瞳を先にそらせたのは、青子だった。
 「・・・どうして、貴方がここにいるの?」
 ・・・襟首掴みながら、言う言葉か?おい・・・
 内心、ため息をつきながら、快斗は、あくまで優雅さを保つ。
 「夢遊病のように歩いている貴女をお見かけしたもので。」 
 青子が、ぎゅっと襟首を掴み直した。
 快斗の焦りをよそに、青子は、眉をひそめる。
 「・・・青子・・・一体どうしたんだろう。」
 呟くような声に、快斗も、眉をひそめる。
 ・・・やっぱ、記憶・・・ねぇのか?
 必死に記憶をたぐり寄せている青子に、快斗の粘りも、限界に近くなる。
 息の触れ合う距離を、これ程長く、保ったことなどない。
 襟首をつかんだまま、途切れた記憶の欠片を探そうと、一点を見つめる青子は、膝で立っており、当然、快斗も同じような状態を強いられている。
 「ショーは観客との真剣勝負」と、常々父親から聞かされてはいたが、快斗にとって、最高の観客である青子は、また、最愛の人でもある。
 血気盛んな高校生として、そのまま、彼女を押し倒してしまいたい気持ちを抑えるのは、ある意味、拷問であるともいえる。
 目の前で、微かに開かれたやわらかそうな唇に、無意識のうちに吸い寄せられたとしても、誰も彼を咎めることは出来ないだろう。
 そう、この状況は、おいしすぎるのだ。
 しかし、真剣勝負を、負けるわけにはいかない。
 心の中の葛藤をおくびにも出さず、ポーカーフェイスをかぶり通したのは、キッドである以上に、男としてのプライドがあったからかも知れない。
 しかし、そのポーカーフェイスが、一瞬にして突き崩されるとは、その時の彼に思う由もなかった。
 女というもの、侮ってはいけないのだ。
 それが、とってもお子様な彼女であったとしても。

6
 「ねぇ、どうして、青子に嘘をつくの?」
 静かな声に、快斗の瞳が、ぎょっとする。
 とはいえ、青子自身は、快斗の襟首をつかんだ、自分の手許に、視線を移している。
 IQ400の頭がフル回転する。
 普段でも、唐突な青子の発言は、時として、快斗の思考を凌駕することがあった。
 尤も、女性的発想までも、彼が全て考え得るわけはないのだから、当然と言えるのだが。
 「・・・何が・・・ですか?」
 落ち着いて、気のないふりをしようとするけれど、微かに自分の声がうわずっていることに、快斗は内心舌打ちをする。
 「だって・・・」
 そう言いかけて、唇をかみしめた彼女の表情が、歪む。
 ・・・まさか、ばれた?
 心臓の鼓動が高鳴ってくる。
 それが、襟首をつかんだ青子に伝わってしまうのではと、無意識に、彼女の手首をつかむと、瞬時に体をこわばらせ、肩が微かにはねて、抵抗が返ってきた。
 「快斗なんでしょ?」
 何も足さない、何も引かない・・・単刀直入な一言に、彼は、迂闊にも絶句してしまった。
 しかし、一度ついた嘘は、そうそう、簡単に翻すわけにもいかない。
 「どうして、そんなことを考えるのですか?」
 そう口にしながらも、やっぱり、彼女の前で、キッドになっていたのは、間違いだったと、今更ながら悔やんでみる。
 「だって・・・青子のこと、知ってたじゃない。青子の家はともかく、部屋まで知ってたじゃない。」
 ・・・普段抜けてる割に、結構回ってるじゃねぇか・・・などと、無礼なことを考えつつも、彼女の口にした理由に、快斗の警戒心がゆるむ。
 しかし、それが、平常心を失った、大きな失敗であると気づくことはなかった。
 「相手を知るということは、相手のあらゆることを知っておくということ。中森警部の周辺について、調査済みなのは、彼から逃れるためには必要なことでしょう。」
 親子して、思考回路が似ているかも知れない・・・そんなことを考えた快斗に、そっとまぶたを閉じた青子の頬を一筋のきらめきが滑り落ちた。
 「・・・どうして、嘘をつき通そうとするの?快斗は、いたずら好きだけど、だけど・・・むやみやたらに人を傷つけたりしないよ?どうして、青子にも嘘をつくの?青子のお父さんが、キッド専属の警部だから?青子が快斗を警察につき出すと思った?ねぇ、快斗!」
 思考がバラバラになっているのか、言葉が、あちらこちらに飛んでいるような気もするが、快斗が沈黙を保ったままだったのは、それが理由では、もちろん無い。
 一気に吐き出した彼女が、涙にくれた顔で、見つめたから。
 その必死の表情に、しばし、言葉が出なかった。
 「・・・どうして、そこまで・・・?」
 かろうじて、先ほどの声音は、保ったものの、思ったままの言葉しか絞り出せない。
 やや興奮気味だった青子が、最後の切り札を、口にした。
 それは、本当に、最後のカード・・・。
 「・・・快斗の・・・匂いがする・・・。」
 ぬれた瞳が、力無く視界から消えた。
 そして、快斗の手の中で、微かなぬくもりが、嗚咽をこらえようとして、震え始めた。
 
 匂い・・・俺の・・・?
 それだけ耳にすれば、なんて、官能的な言葉だろう。
 キッドとして対峙しているのでなければ、あるいは、そのまま、青子を抱きすくめて、・・・あとはどうなっていたかわからないところだが、現実というのは、大抵は呆気ないか、無味乾燥としているか、・・・過酷なのだ。
 つかんだ腕を離し、そっと肩に手を回すと、青子の小さな肩は、快斗の胸の中にすっぽりと収まってしまう。
 抱きしめたいけれど、今更、そんなことできるのだろうか。
 しかし、彼女がしゃくり上げるに至って、躊躇いを捨て、包み込んでしまおうとしたその刹那、快斗は、凍り付いた。
 「快斗なんて、嫌い。大嫌い。キッドも嫌いだけど、快斗はもっと大嫌い!」
 が、当の本人は、そのまま、完全に快斗の胸を借りて、本格的に泣きじゃくる。
 普段の彼ならば、「どうしろっていうんだよっ!」と悪態の一つでもつくのだろうが、生憎、それほどの余裕は、どこにも持ち合わせていなかった。
 「快斗のバカ。嘘つき。・・・青子なら、わかんないと思ったの?わかりっこないって、嘘ついたまま、知らない顔してるつもりだったの?・・・どうして・・・」
 散々、悪態をつかれても、愛しさは、募れど、褪せることはない。
 未だかつて見たことの無いほど、感情を乱す青子に、快斗は、なす術もなく、立ちつくした。

 青子はと言えば、めいっぱい感情を高ぶらせると、やがて、それが緩やかに収束してゆくのを感じていた。
 そう、どんなに、悲しんでも、罵っても、過ぎてきた事実は、変えようがない。
 それは、今し方、青子のために彼が嘘をついたことはもちろんのこと、ずっと時間をさかのぼり、怪盗キッドの再来と、父銀三が張り切り始めた頃からの、思い返される、様々な出来事全てにわたるのだ。
 共に過ごした時間全てが、まるで、謀られたことのように思えてきて、悲しみに拍車をかけるが、それでも、快斗が悪意を持っていたり、唯の愉快犯であるとは、考えない。
 ・・・快斗は、そんな悪い奴じゃない。
 どこかに、揺るぎない確信を持っている。
 しかし、まるで、知らぬもののように扱われたことが、思いもよらぬ深い傷になっていて、自身のそんな信頼感すら、青子を傷つけた。
 相反するだけでなく、様々な感情がぶつかり合いせめぎ合い、ジレンマとなって、彼女に襲いかかる。
 ようやっと嗚咽がおさまる頃、青子の感情は恐ろしいほどに、静けさを取り戻した。
 

7
 「快斗、逃げないでね。快斗が逃げたら、・・・明日学校に来なかったら、青子、お父さんに、言うからね。」
 まっすぐに向けられた視線の鋭さに、快斗の背筋を冷たいものが滑り落ちる。
 先ほどまで泣いていた顔は、薄暗がりでははっきりとはわからないが、それでも、瞳が潤んでいるとか、頬を伝った涙が、まだ乾いていないとか、唇がいっそう上気している・・・くらいは、夜目が利くため、よくわかる。
 壮絶なまでの美しさに、快斗は、ごくりとつばを飲み込んだ。
 自分が傷つけたのだけれど、悲しませたのは自分なのだけれど、彼女の存在が、自分の中の何かを狂わせるような気がして、目眩がする。
 けれど、・・・そんなものを感じている場合ではないのだ。
 ほんの少し、まぶたを閉じて、そして、軽く息を吐き出すと、快斗は、ポーカーフェイスという、キッドの仮面を脱ぎ捨てた。
 「見逃すって言うのか?」
 それは、ぶっきらぼうな、いつもの快斗。
 「逃げないでしょ?」
 地に着いた声の奥に、どんな確信を持っているんだか。
 「そんなもん、わかるわけねぇじゃねぇか。」
 「逃げないよ、快斗は。」
 暗闇の中で、しばしにらみ合っていたが、今度、目をそらしたのは、快斗の方だった。
 「ったく・・・おめぇは、なんで、そんな・・・。」
 お人好しだとか、甘いとか、いろいろ言葉はあるのだろうが、どれもこれも彼女を表現することは出来ない。
 「明日、必ず、学校へ来てね。」
 そう言って、青子があごを引いたのを見て、快斗は、白いマントを翻した。
 一斉に数羽の鳩が部屋の中で羽ばたく。
 驚いた青子が、思わずよけて、それを遮ると、窓から鳩だけでなく、快斗の姿も消えていった。
 「ばーろぉ・・・」
 という、いつもより、切なさを含んだつぶやきを残して。

 白さが失せて、元の闇が戻ると、暫くぼんやりしていた青子は、膝から力が抜け、ゆっくりと、腰を下ろした。
 一時的に記憶を失っていた、その直後に受けた、ショックが大きすぎて、寒くもないのに、体が自然に震えてくる。
 父親が、専属となって追い続けている怪盗が、どうしてよりによって、快斗だったのか。
 言われてみれば、心当たりがないわけではない。
 キッドの予告日の翌日の彼は、なんだかんだと、眠たげで、普段から、授業を真面目に受けているとは思えないが、更に、居眠りが激しくなる。
 夜遅くまで、警察と追いかけっこをして、なら、頷ける。
 快斗の手品は、初めて会った時から、青子を魅了し続けているが、それが、彼の実力の全てでなく、一部であったなら? 
 彼が、父親並みの腕を持っているならば、警察を煙に巻くことも、不可能ではない。
 彼の父、盗一氏のマジックショーは、さながら、夢の国のようだったのだ。
 ・・・なぜ?
 考えたところで、快斗がキッドであるという事実を知ったばかりの青子に、答えが出るわけなどない。
 ただ、その事実を、事実として、認識するので精一杯で。
 わかるのは、彼が、単なる愉快犯ではないだろうと言うこと。
 いつも、ふざけてばかりで、真面目というものからほど遠いように見える彼だが、その
彼が、亡くなった父親を、世界一のマジシャンとして、尊敬していたことは彼女とて重々承知しているし、マジックを、悪意ある行為の手段として使うことは、考えられなかったからだ。
 それだけは、間違いないと思うし、そうであって欲しかった。
 
 落ち着いた、というよりは、身に付いた習慣と言うべきか。
 青子は、そろそろと立ち上がると、家中の戸締まりを確認し始めた。どこも、今日の昼に、出掛けた時のままで、変わりない。手を洗い、うがいをしながら、それをどこかで、他人事のように感じている自分がいる。
 体がだるかった。
 頭も、何だか重い。
 体の要求のままに、ベッドに潜り込んだけれど、妙に冴えた頭では、眠ることさえままならない。
 思い返されるのは、快斗のことばかり。
 彼を取り巻く、時間と空間に思いを馳せながら、事実を知ってしまった自分が、どうすればいいのか、思い悩む種はいくらでも、枯れることなく湧き上がる。
 その度に、枕を濡らしながら、それでも、青子は、自分の中に、ひとつの思いを見つけていた。




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