【 雷鳴が聞こえる前に 】
【15】













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 翌朝、サムが目覚めると、ディーンはもう起きてシャワーを使い終わった後だった。

 よう、と言われてぼさぼさの頭のまま、うん、とよく分からない返事をする。

 朝メシ食いに行くか、と言われて慌ててシャワーを浴び、国道沿いにあるカフェに行く。

 セットメニューを頼んでぼんやりしていると、どうしても昨夜の事を思い出してしまい、居た堪れない気持ちで尻がむずむずしてくる。

 サムは、昨夜無防備に転がったディーンの身体に激しい欲情を感じた事も、夢の中で自分がずっと渇望していたのがディーンだった事も、今ははっきりと覚えていた。

 夢の中でした事は、あまりにもリアルで、彼から滲み出た汗の味や、涙、それから仔猫のような声を上げて達した彼のしぶきの熱までもをサムは鮮明に思い出す。

 妄想にしてはそれは克明過ぎて、過去の記憶でなければ予知夢かと思うほどだ。
 目を見れば、睫毛が濡れるほど喘ぎながら泣いた顔を思い出すし、くちびるを見れば彼の舌の味と触れた感触を思い出す。

 後姿を見れば、背後から押し入ったときの背中のなめらかな締まった筋肉のうごきを思い出して唾を飲み込んでしまう。

 痛いくらいにキツく締め付けてきた奥の蕾の感触に頭がいかなくても、もうとてもじゃないが、サムはまともにディーンの顔を見ることができなかった。

 今まで、起きているディーンにそんなおかしな衝動を覚えた事は皆無だったし、大体自分にはジェシカがいる。

 確かに彼はセクシーと言えるかもしれないし、とても綺麗な顔立ちをしている。でも、男だし、謎だらけだしで、サムが想いを寄せるべき相手ではない。

 悶々としながら来たモーニングセットを黙々と食べていると、電話なのか、ちょっと、と言ってディーンが席を外す。

 それから、サムが食べ終えてコーヒーを飲み終わるまで、ディーンは席に戻ってこなかった。

ようやく戻ってきた彼が手早く食事を済ませ、丁度整備工場の営業時間になったので、発電機を取りに行く。

 代金を払い、修理に必要な部品を借りて、二人で抱えてインパラのトランクに乗せてサムのアパートへ戻る。

 サムの車のボンネットを開け、ディーンが修理をする間、工具をとってくれと言われてそれを取る以外、サムは手持無沙汰で、どうやっても目が行ってしまうディーンの横顔を、気付かれない様にしてただじっと見つめていた。

 昼を過ぎる前に、ヴォン!、と軽快な音を立ててサムの車のエンジンがかかる。試しにアパートを一周してみたが、問題なくエンジンは動いた。

「わお!!すごいやディーン!ほんとにありがとう!」

とその時だけは全てを忘れて思わずディーンの手を掴むと、あぁ、とディーンがゆっくりと目を逸らすので、サムもまた慌てて手を引っ込めるしかなかった。

喜んだのも束の間、車が直ってしまえば、ディーンの車に乗せてもらう必要も理由ももうない事に気付く。

この1週間で、まるで自分の家の車のように、馴染んだインパラの助手席だった。ディーンが口ずさむ、少し外れたクラッシックロックのテープですら、曲順を覚えてしまったくらいだ。

「本当に、君には何てお礼を言っていいのかわからないよ」

 サムが言うと、工具を片付けながらディーンは口だけで笑みを作った。全てを片づけてしまうと、膝の汚れを払って上着を着込み、彼は口を開いた。

「実は、…ちょっとヤボ用があって、今日これからここを発って、少し遠くへ行くことになったんだ」

 唐突な話に驚く。

「え…あ、そう、なんだ…でも、弟さん探しは?」

「あぁ、それは…もういいんだ。人づてに、連絡があって、あいつは元気でやってるってことがわかったから。親父の具合も今は安定してるみたいだし…もう少し、様子をみることにするよ」

困惑して聞くと、そう言われて内心でほっとする。 

やはり、自分が弟なのではないかと思ったのは、間違いだったのだと。写真は単に他人の空似で、彼はただの親切な通りすがりの他人だったのだと、サムは不自然さを押し殺して自分を無理やり納得させた。

 

どうしても、昨夜の事が、サムには気まずくて仕方がなかった。

彼を見ていると、身体の奥からおかしな感情が湧きおこり、衝動的に訳の分からない行動に出てしまいそうな自分が理解できず、恐ろしく思えた。

あんなに世話になっておいて申し訳ないが、彼さえ目の前からいなくなれば、自分のこのおかしな感情から、そしてあの夢から逃れられる。サムは内心でそう思い、安堵の息を付いていた。

―そう、思っていたのに。

そろそろ行くよ、と言われて何故かツキンと胸の奥が痛んだ。

「そうか…残念だな」

 何を言えばいいのかわからず、俯いて自分の足元を見つめていると、ごそごそと音がして、何かを差し出された。

 顔を上げる。

「これを、もらってくれないか」

差し出されていたのは、―彼が、弟にもらったという、鈍い金に光る、あのアミュレットだった。

「えっ、…ダメだよ!これは、弟さんにもらった大切な…」

「いいんだ。俺はもう十分守ってもらったし。お前の方が、お守りが必要そうだからな」

 運転もヘタだし、車も直せないし、と笑いながら言う彼にそれを押し付けられ、うるさいな!と思わず苦笑する。

 笑い合っていると、唐突にディーンは真顔になった。

 真剣な目の色にどきっとする間でもなく。唐突に、ぎゅっと真正面から抱き締められて驚く。

 予想外の行動に、心臓が破裂しそうに脈打ち始めた。

「ディ……、」

サムが何かを言うよりも早く、耳元で、ほんの小さく、聞こえないくらいの声で彼はなにか囁いた。

え、と思い、聞き返そうと屈んだ時に、フッと逃げる様にディーンはサムから離れた。

離れる瞬間に、掠めるようにしてくちびるに一瞬だけ触れたのが、彼のくちびるだったことに、気付いた時にはもう彼は何事もなかったような顔をしてサムから距離を置いていた。

呆然としていると、じゃあな、と言われ、手で合図をされてオウムのようにただ返す。それを見て、小さく笑って。

ディーンは去っていった。

 あっさりと道の向こう側に停めたインパラに乗り込んでしまったディーンに、どうしていいのかわからずサムはとりあえずふらふらとアパートへ戻る。

気持ち悪い、とかなんだあいつゲイだったのか、とか、そんな考えは、一切思いつきもしなかった。

階段を上りながら、一瞬だけ触れて離れた彼の僅かな残り香に、最後に見せた寂しそうな笑顔に、何故か胸の奥がぎゅうっと締め付けられるように痛んだ。

 

“ サミィ…しあわせになれ ”

 

 彼は、そう囁いたように、サムには聞こえた。

―何故、幸せに、なんていうのか。

あんなに大切だと言っていた、自分と同じ名前の弟からもらって大切にしているというお守りを、サムに渡すのか。

昨日、サミーと呼ばれたとき、胸の奥が不思議に暖かくなったのは何故なのか。

やっぱり、彼はサムの兄なのだろうか。父はそれを今までずっとサムに隠して生きてきたのだろうか。

だけれども、それが本当なら、何故ボビーはそうと言ってくれなかったのか。

 

“ お前が、自分で思い出せなければ意味がない ”

 

思い出す?何を?僕が、一体何を忘れてるっていうんだ。腹立ち紛れに走って残りの階段を駆け上る。

悶々としたまま、ただいま、と家に帰るとジェスはバスルームで鏡に向かってメイクの真っ最中だった。

「お帰りなさい!やだ、まだそんな恰好しているの?はやく着替えてね、もう少しで出なきゃいけない時間なんだから!」

それにあぁとかうんとか言いながら、この日の為に買ったワンピースでドレスアップしてパーティの準備に余念がないジェシカを褒めることも忘れて、サムはとりあえず落ち着かなくてはと冷蔵庫からコーラを出す。

彼女に今日、プロポーズをするはずだった。そして結婚する。弁護士になって家を買って子供を作って、今日が明るい道を歩む人生を送る始まりの日になる予定だったのに。そんな気分はどこかへ消し飛んでしまった。

何か、途轍もなく気持ちが悪かった。今日は、例えプロポーズを後日に延期したとしても、大切な彼女の誕生日なのに、縁起でもない。

不快感を隠せず、サムはボスっと体重をかけてソファに腰掛ける。途端、尻にぴりっと刺す感触がして飛び上った。

「痛ッ………あ…。」

何かと思ってゴソゴソポケットを漁ると、先ほど渡された、ディーンのアミュレットが出てくる。どうやらこれがジーンズ越しに尻に刺さったらしい。痛い筈だ。

 コーラを飲みながら、目の前にぶら下げたそれを見つめる。

 よく見るとそのお守りは人の顔の形をしていて、しかも、とてもヘンな顔をしていた。インドやアステカか何処かの土偶のような顔をしている。妙な宗教のお守りじゃないといいけど、と思いながらしげしげと見つめていると、そのアミュレットをいつも着けていた彼の顔が目に浮かんだ。

おかしな顔のアミュレットを見ていると、様々な彼が思い出される。

じっと見つめる深いヘイゼルの、何か言いたげな瞳の色。ふわりと香るボディーソープの匂い。―さっき初めて、一瞬だけ触れて離れた、柔らかなくちびる。そして―父と仲良くした方がいいと諭した、真剣な顔と思いつめた声。

 

 ゴロゴロと激しく空が鳴り始め、しばらくして滝のような音が聞こえ出す。ザ――ッとスコールのように、強い雨が降り出したようだった。

雨音に包まれると、唐突に、発作のように血液が逆流しそうな激しい不快感が全身を這う。内臓を吐きだしたいほど全身が自己を否定しようとする衝動だった。

はっきりと感じる。これは、違う―――――この生活は、この人生は。

「やだ、せっかくのパーティなのに、こんな雨じゃ車に行くまでに濡れちゃうわね。みんな来てくれるかしら?」

にこにこしながら言う、バスルームから出てきたジェシカの華やかでキュートな笑顔に、耐え切れないほどの違和感を覚える。

 

ボクノソバニイルノハキミジャナイ

 

体が強張る。いてもたってもいられず、曖昧にジェシカに告げると、そのまま走って部屋を飛び出す。転げるようにして、サムはアパートの階段を駆け下りた。

―どうしても彼を止めなくてはいけない。

訳も分からずに、それだけを思ってサムはアパートの入口を飛び出し、振り出した豪雨の中、無我夢中で必死に走る。

幸運にもまだ止まっていたインパラは、だがエンジンを掛け、いまにも走り出してしまいそうな気配がしていた。

 

止めなくては、と必死に手を振るが、気付かずに車は動き出し、去って行こうとしている。

彼は行ってしまう。二度とサムの手の届かないところへ。

止まれ、というもどかしい強い思いで必死に手を振る。

「くそっ…止まれ!止まれって!!

、ディ―――ン!!

口が勝手に叫んだ。その名前に。

サムがふいに記憶の片鱗を感じた瞬間。振り上げた手を目掛けて一億ボルトの電流が突き刺さった。

立って足を開いていたサムは、それをまともに受ける。体に耐え切れないほどの電流を受け、足をがくがくと振るわせる。

電流と共に、ものすごい勢いで怒涛のように脳に記憶が流れ込んでくる。それを確実に認識する、までもなく。












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