手早くシャワーを浴びてバスタオルだけを引っ掛けて急いで戻ると、眠っていた筈のベッドにジェンセンの姿がなかった。
トイレかな、などと思ってふと見ると、壁際に置いてあった彼の手持ちの最後の荷物であるスポーツバッグが消えている。
僕が彼から全て脱がせて、そしてさっきベッドのフットボードに掛けた、服も。
その意味することに気付いて血の気が引く。慌てて服を着ようと自分のジーンズを拾い上げる。
そのときふわりとなにかが香って、一瞬動きを止めた。
ベッドとチェストやスタンドしかない、片付けられた部屋の中にほのかに馨った残り香。
それは、僕が贈った香水とは、どこか違う香りだった。
試供品の香りに興味を示した僕に、丁寧に説明をしてくれた店員のことばを思い出す。
アブサンのラストノートは、アンティークウッドと、漆黒のムスク、アンバー。
香水は、香りを感じる順番により、トップノート、ミドルノート、そしてラストノートに分かれて表現され、付ける人の体臭と交じり合い、故に付けた時の香りは、つけてみなければ誰にも分からないのだという。
その残り香は、世界にただ一つだけの彼の香り。
目を閉じる。
緑の香りは、ベッドにほのかに残った彼の体臭と絡み合い、不思議に深く甘い香りとなって僕の鼻腔をほんの僅かに淡くくすぐった。
あの時、彼からほんの僅かに立ち上ったアブサンは、気付かれる筈のない密やかな告白だった。
―気付かれなくてもいい、どうか気付かないでくれ。
きっとそんなふうに思いながら、それでも
どうしても最後にそれを付けずにはいられなかった、彼の本当の想いを。
彼自身のような、香りを吸い込む。
それはまるで、――胸の奥にまで沁み込むかのような、馨しく美しい香りだった。
香りを感じるごとに、彼に踏み込んで溺れることを恐れていた、臆病な自分が消えていく。
その香りを嗅ぎながら、決意する。
目を開ける。
パッと立ち上がってジーンズだけを急いで身に付け、僕は階段を駆け下りた。
玄関を飛び出す。
そこでガレージの前に停めた車に、乗り込もうとしていたジェンセンが目に入った。
「ジェン…ッ」
駆け寄ると、こちらを見てハッとしたように動きを止めた彼は、一瞬だけ目をそらすと、動揺したようにみるみるうちに赤くなった。
え?と思いながらそれでも近付いて、何か言おうとすると、「ちょっと、来い」と言いながらぐいっと腕を取られる。
なんなのかわからないまま、ずるずると玄関まで引っ張られてドアを閉められる。
声をかけようとする前に、ジェンセンは手を離すと両手で顔を覆った。
「お前、そんな格好で出てくるな…!」
耐えられない、というように搾り出された声に、え、でも、と思う。
「急いでたから…でもジーンズは履いたし…」
上半身は裸だけれど、夜だし、近所の人だって誰も通っていない。何故そこまでジェンセンが困惑しているのか分からず、まさかジッパーでも開けたまま出てしまったのかと自分を見下ろすと、あ、と思わず声が出る。
胸筋の張った左の乳首の上辺りに、ぽつんと小さな紅い跡。
―キスマーク。
そういえば、昨夜ジェンセンがこの辺りにくちづけてくれていたような―
彼に夢中で、そんなギフトを残していってくれていたことには全く気付かなかった。
僕もたくさんの跡を彼に残したけれど、万が一撮影に支障があってはと、足の付け根や性器の周辺にキツく付けた覚えがあった。
体液を拭ってやりながら、あまりの自分の独占欲の強さに困惑したが、多分あれではジェンセンはしばらく人前で服は脱げないだろうと思う。
それに比べれば全くちいさな跡ではあるが、確かに、このまま外に出るのはちょっとヤバかったかもしれない。
まあ、大概の人は彼女とホットな一夜を過ごしたんだと思ってくれるのだろうが、付けたジェンセン自身はそんなものを晒したまま堂々と出てこられて生きた心地がしなかったのだろう。
「勘弁してくれ…」
小さな呟きに、見れば、顔を覆ったままジェンセンは耳まで赤くなっている。
腕には、僕が贈った時計。
それを彼がどれだけ大切にしてくれているのか、僕は知っている。
胸が熱くなる。
顔を覆っているジェンセンの手を取る。
泣きそうな顔で彼は頬と耳を赤く染めて、怒ったような顔で僕を見た。
取った指先にくちづける。びくっとして彼は手を引こうとした。
「―行かないで」
そう言うと、彼が引きかけた手を止める。
必死に、口を開いた。駆け引きも、何もなかった。
「カナダが、不便なら、ロスに家を買うよ。ジェンセンが、好きなところ、…どこでもいい。…だから」
もう一度、僕と一緒に暮らして欲しい
心からの本音だった。
撮影が終わったら出て行く、と言いだした彼に、驚愕して必死に止めようとした。
カナダは寒いから嫌なんだ、と苦笑しながら言ったのは、僕への決別なんだとわかった。
その時に初めて、どうしても彼を失えないと気付いた。
ずっと捜し求めていた理想にぴたりと当て嵌まる宝石を見つけた。
だが、それに触れる事は、いつか無くす事、壊す事を意味していて、
渇望しすぎて触れる事が怖くなった。
彼に初めて触れた夜、愛していると云いそびれた僕には、
自分の気持ちから顔をそむけていた僕には、
引き止める資格なんてない。
でも、それでも彼と別に暮らすことなんてもう考えられやしなかった。
必死に言い募ると、ジェンセンはきゅっと眉を顰めて、そして僅かに身を屈めた。
次の瞬間、ドッ!と腹に拳が入る。
全く予想もしていなかった僕は、受身を取る事も出来ず、まともにそれを受けた。
見事なパンチが僕の鳩尾にヒットしていた。
絶対に痣になる、そんな強烈な手加減無しの拳。
顔じゃなかったことに、感謝しなくてはならない。
身をかがめてゴホゴホッ!、と咳き込む。
「…からかうのも、いい加減にしろよ」
呟くように言って、ドアを開けようとするのを、痛みを堪えて立ちふさがり、押し止める。
「からかってなんかない、」
「簡単にヤれる相手が欲しいなら他を当たれ」
「そんなんじゃないッ、ジェン、君が…!」
「俺が……何だ?」
ものすごく怒っている彼の声に、それでも意を決してずっと不安に思っていたことを言う。
「君は、君は――あの時…僕がキスしたとき、ひどく酔ってた。
…だから、ほんとは、…相手が、誰なのかわかってなかったんじゃないかって、…うわッ!」
今度こそ、拳を固めたジェンセンのパンチが顔に向けられて慌てて避ける。
「こんな大男、他の誰と間違えるって言うんだ!!」
叫ぶように言うジェンセンの頬は真っ赤だった。
「うん、ごめん、わかってる」
ごめん、本当にごめん…、といいながら握り込んだ手ごと抱き竦める。
彼の身体は、ちょうどよく僕の身体に収まる。
まるでお互いの為にお互いを誂えたかのように。
僕達は何もかもがぴったりと嵌まり合った。
「あ、…あのさ、」
大人しくしてくれている彼から蹴りが出ないことをいいことに、深く抱き締めて形の良い後頭部に鼻先を軽く埋める。
「あの、ジェン、……聞いてる?」
「……なんだよ」
ものすごく不機嫌そうな鼻声が返ってくる。
可愛くて、苦笑しながら、耳元で小さくボソッと呟く。
そのまま慌てて頬に口付け、殴られないように深く抱き締める。
腕の中のジェンセンは身体を硬くしたまま何も言わない。
―やっぱり、殴られてもいい。
それでも。もう絶対に、離さない。
“ ジェンが、好きだ ”
囁いた言葉は、彼に届いただろうか。
抱き締めたまま様子を伺っていると、唐突に彼が顔を上げた。
紅く染まった目尻で、涙に濡れた目で、ぐっとくちびるを噛んで見つめてくる。
その翡翠のような様々な感情の浮かんだ美しい瞳の色に、一瞬ことばを失った。
思わずぼうっとすると、頬を両手で包まれ、乱暴に口付けられる。
えっと思っていると、そのまま圧し掛かるように押し倒された。
危うく二人で頭を打ちそうになり、守るように抱き竦めたジェンセンごと玄関のアプローチに横に倒れる。
馬乗りになったまま、一度くちびるを離したジェンセンの、瞳から零れた涙が、
ぽたりと僕の頬に落ちた。
それを、濡れた頬のまま身を屈めてくちびるで吸い取ってくれる。
柔らかな感触に息が洩れる。
離れ際、耳元でそっと小さく囁かれた言葉に、目を見開いた。
腕を伸ばして、起き上がろうとしていたジェンセンのゆびさきに触れる。
躊躇い、僅かに震えるそれごと握りこんで、体を引き寄せ、もう決して離れないようにと深く抱き締める。
“…俺は、愛してる ”
好きだと言うのが遅すぎた僕を詰るかのように、好きだけでは足りないのだというように、伝えられた言葉が胸に染みて、その拗ねた言い草があまりに可愛くて思わず苦笑する。
逆らわずに腕の中に落ちてきた彼から香った、アブサンのラストノートは、僕自身の香りと混じり。
初めて心を重ねたいまを祝福するかのように、どの香りとも違う新鮮な優しい香りで、二人を包み込んでくれていた。
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