Ja/Je
R-18

【 Absynthe 】
【5】









 目覚めたとき、俺は自分のベッドでひとりで眠っていた。

 なんだかやたらにだるい身体で呻きながら寝返りを打つ。

 するりとシーツが肩から落ちて、そのとき自分が裸で眠っていたことに気付いた。

 いつもなら熱いコーヒーを啜らなければ目が覚めないのに、昨夜のことを全て思い出して瞬時に覚醒する。

 飛び上がって叫びたいような、穴を掘って埋まりたいような猛烈な羞恥に襲われて

 「うあ…!」と頭を抱えて叫ぶ。

 少し乱暴だったけれど、蕩けるほど情熱的だったジャレッドの初めての姿が脳裏にありありと思い浮かび、頬がカッと熱くなる。


 ジャレッドは何処にいったのだろう。 

 うろたえながらも、とりあえずシャツにジーンズを履いて部屋を出る。

 覗いたリビングにはコーヒーの香ばしい香りが漂っていた。たぶん、コーヒーメーカーがセットされているのだろう。思わず頬が緩む。

 だが、キッチンにも彼はいないようだった。 

 なんとなく気配を感じて、ガレージへと向かう。

 車を数台停めてもまだ十分な余裕のあるガレージは、ジャレッドの趣味で自宅に造ったジムとしてはけっこうな設備が整えられている。

 ドアを開けると、やはりジャレッドはそこでワークアウトをしていたらしい。

 トレーニングマシンに仰向けになって身体を捻るように起こし、シットアップをしているようだった。

 汗で濡れたTシャツが肌に張り付き、鍛え上げられた肉体をはっきりと浮かび上がらせていて、見慣れている筈なのに、思わず息を呑む。
 昨夜のジャレッドを思い出してしまい、そのとき俺は内心で激しく動揺していた。

 起き上がったところで気付いたようで、ジャレッドが動きを止め、ふとこちらに目を遣る。

 「おはよう、ジェンセン」

 おはよう、と平静を装って微笑をつくり、ぎこちなく返すと、脇に掛けていたタオルをとり、汗を拭きながら、「コーヒー、キッチンに用意してあるよ」、と少し荒い息のまま言うと、にっこりと笑ってジャレッドはマシンから立ち上がった。

 シャワー浴びてくるね、と横を通り過ぎる。

 声を掛ける隙はまるでなかった。



 しばらくそのまま突っ立って、彼が完全に昨夜のことをなかった事にしているのがわかって呆然とする。


 酒の勢いではあったけれどでも、愛し合ったのだと思っていた。

 ―なのに。

 昨夜情熱的に抱き合いながらも、本気で愛したのは、自分だけだったのだと。
 
 そのときはじめて俺は気付いた。


 その後のことはよく覚えていない。

 とりあえずコーヒーを飲み、シャワーを浴びて自分の部屋に戻り、午後になって買い物に行かない?というジャレッドに、俺はいい、と平静を装って言うのが限界だった。

 そう?と言って車で出て行ったエンジン音が完全に聞こえなくなってから、俺は泣いた。

 一回きりのセックスで終わりなんて、よくある事だと必死に思おうとした。

 しかも、男同士で、最後までしたわけでもない。

 たぶん、その時に高まった欲望を発散し合う為の相手が欲しかっただけなのだと。

 見つめる瞳のいろに特別なものを感じたのは、俺の勘違いだったのだと。

 あいつが帰ってくるまでには普通の顔に戻って、また、ただのウマの合う同居人として、仲のいい共演者としてどうかうまくやっていけるように。

 帰ってきたあいつはお菓子や食料品を買い込んで、俺にもオミヤゲ、といっていろいろなものをくれた。

 全く考えていることがわからない、平然とした笑顔が憎らしかった。





 ある日、唐突に渡された香水。

 なんとなく、ジェンに合いそうだと思って、とたまたまのようにバレンタインに渡されたそれを緊張しながら開けると、不思議な緑の香りに包まれた。

 すっきりとした薄荷を思わせるトップノートが、次第に深みのある緑の香りに変わり、最後には少し柔らかな甘い懐かしさを感じさせるアンバーに消えていく。

 あいつにとって、俺はこういう印象なのかと、新鮮な思いがした。

 幾度も、付けることなくそれを開けてはひっそりと香りを堪能した。

 あいつが買ってくれたものはたくさんある。

 その中でも、その香水は特別だった。

 柔らかで高貴な緑の香りに包まれると、勃ってしまいそうなほどあいつを感じて混乱することさえあった。

 でも、一度たりとも付けることはできなかった。

 付ければ、もうあいつの前で平然とした演技をすることは出来ない。

 ただの、愚かな恋する男に成り下がってしまうのが目に見えていた。

 そんな必死に隠していた想いが、まさか成就したのかと錯覚してしまった、かなしい一夜だった。

 


 ―それなのに。

 出て行くという段になってから、自分が決めたことなのに、耐え切れず。

 俺は、それを初めてつけた。

 最後に想いを振り切って出て行く為には、どうしてもそれが必要だった。

 決して気付かれることのないように、もっとも香りが遠く分かりにくい、足首に。

 ほんの僅か付けたそれは、自分にも分かるかわからないかくらいのもので、俺を安心させた。


 なのに、結局それに気付かれてしまった。

 戸惑ったあいつの視線に、本気で消えてしまいたくなった。



 香りに引き寄せられるかのように唐突に口付けをされて、ぶん殴ってやりたいとはらわたが煮えくり返ったのは、たった一瞬だけで。

 足元から湧き上がるような歓喜と甘い痺れに、押さえつけられた腕が震えた。

 初めて触れたあの夜から、数ヶ月ぶりに感じたジャレッドの熱だった。
 


 どうして、どうしてこんなに、こいつだけが、どうして。

 欲しくて、愛しくて、苦しくてたまらない。


 好きだ

 好きなんだ、ジャレッド


 酷い お前は 酷い奴だ


 あの夜、酔っ払って前後不覚もいいところだった俺に

 有無を言わせずくちびるが腫れるほどキスをしてきたくせに

 身体中を舐めて恥ずかしいところにまで口付けて、俺を二回もイかせたくせに

 嫌というほど乳首を噛んで俺を啼かせたくせに

 尻の穴に指を突っ込んで、挿れたくてたまらないといわんばかりにふとい指で散々掻き回したくせに

 そんなところに受け入れたことのない俺に突っ込めそうもないとわかったら

 ふたりの性器をくっつけていやらしく擦り合わせて俺の腹の上に熱い精液をたっぷり吐き出したくせに

   

 それなのに、全てなかったことにした振りで、爽やかな笑顔で
 普通の日常にひとりで戻っていくなんて


 ひとりあの夜のお前に捕らわれたままの俺は
 馬鹿みたいにお前のことしか考えられなくて

 どれだけ苦しさに泣いたと思うのか



 お前みたいな奴は初めてだった

 綺麗だなんて、100万回言われ慣れている

 それしか言うことはないのかというくらい

 俺にはその価値しかないのかと思うくらい

 だけど、お前は違ってた







 お前は、酷い奴だ

 こんなにお前を好きにさせておいて

 優しくて人懐っこい誠実なカラを被った 弱虫で卑怯で 最低な男だ


 それでも

 それでもお前が好きな俺は
 本当にバカだと思った

 ぶん殴ってやりたい気持ちとは裏腹に、手が勝手にジャレッドの背中を引き寄せる
 
 触れたくて、口付けたくてたまらなかった

 どうせまた、なかった事にされる。
 ならば一度も二度も同じだ。

 最後に、もう一度だけこいつが欲しいと全身が渇望していた。

 たった一度と心に決めて打った麻薬の禁断症状に抗えず、結局泥沼に沈むみたいに深みにはまり、溺れていくように

 俺は泣きながらジャレッドの口付けに応え、その熱に溺れていった。







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