Ja/Je
R-18

【 Absynthe 】
【1】









 それはまだ、信じられないことのような気がしていた。

 今日、自分がこの家を出て行くなんて。

 でも、それは決して夢の中の出来事ではなくて。

 もう全て大きな荷物は運び出し、あと残っているのは、スポーツバッグに詰め込んだすぐに使う身の回りのものだけ。

 そしてあとは、自分自身がこの部屋を後にするだけだ。



 電気を点けない部屋は薄暗くて、でももう灯りをともす気にもなれず。
その部屋に佇みながら、ぼんやりと周りを見る。

 荷物のなくなったがらんとした部屋には、キングサイズのベッドと、それから少しの家具が残されている。

 あいつに買ってもらったベッドは、そのまま残していくことにした。

 買ってもらったもので、大き過ぎるということもあるし、それに、これには―あまりにも、思い出が多過ぎて。

 とてもじゃないけれど、このベッドを見て、この先にあいつを思い出さずにいられる自信がなかった。

 思い出の品なんてなくても、それでも。

 こんなにも――――


 そのとき、カチャリと小さな音がして、部屋のドアが開いた。





 「…終わった?」

 廊下から洩れる光と共に、ドアにもたれたジャレッドが部屋を見回して言う。

 「あぁ」

 あとはこれだけだ、と足元のバッグを指して笑う。

 そっか、とジャレッドも笑った。

 それきり、沈黙が流れた。

 本当なら。

 本当に、世話になったな、ありがとう、と。

 言わなくてはならないのに、ことばが上手く出てこなくて。

 本当なら、ハグをしてかたく握手をして、笑顔で、

 ここを去っていくべきなのに。

 どうしても、体が動かなかった。

 「ジェン……?」

 黙りこくった俺の様子を、伺うようにジャレッドが声を掛けてくる。

 ―もう、行かなくては。

 動かない足を叱咤して、どうにか体を動かす。

 ちゃんとした挨拶も出来ずに、すれ違い様、口元だけで笑うようにして、じゃあな、と言って、俺はバッグを持ち上げて部屋を出ようとした。

 腕を掴まれて、ビクッと動きを止める。

 「なんで泣いてるの」

 冷ややかに言われて、顔を背ける。

 手を振り解きたかったのに、そうしたら涙が零れてしまいそうで、俺はただその体勢で固まるしかなかった。

 「出て行くって言い出したのは、ジェンセンじゃないか」

 僕は、何度もこのまま荷物置いておいたらって言ったのに。

 しばらく家はこのままにしておくから、いつでも、カナダに用があるときに使えばいいって。


 そう、全てのシーズンの撮影が終わった時、出て行くと伝えたのは俺の方だった。

 このまま、傍にいることが辛くて。

 「なんで……」

 肩を掴まれて、向き合わされる。 
  
 涙が零れる。

 違う、これはちがう。

 お前と別れることが辛くて泣いているんじゃない。

 この家での生活が、楽しすぎたから。

 この先の人生で、これほど素晴らしい時間が、俺に訪れることがあるのだろうかと思うほどに。


 ―だから。

 両肩を掴まれる。

 「ジェンセン」

 くちびるを噛み締める。泣いていることは隠しようもないけれど、それでも目を合わせることなどどうしたって出来そうにもなかった。

 「こっちを見て」

 言われても頑なに目をそらしていると、顎を掴まれて向かされる。
たぶん、こいつのゆびは今、頬を伝った俺の涙で濡れた。

 そんなことはお構い無しに、それでも視線だけは伏せたままの俺に、焦れたようにジャレッドは顔を近づけ。
そしてびくりと動きを止める。

 気付かれたのかもしれない、ということに、ハッとして、思わず視線を動かす。

 視線が絡む。

 信じられない、というような視線に、気付かれたことを知った。

 逃げ出したい、恥ずかしくて、このまま死んでしまいたくなる。

 ジャレッドは驚きを交えた真剣な表情で、硬直した俺の濡れた頬を両手で包み込んだ。

 「ジェンセン、僕は」

 目を閉じ、首を振ろうとして、動きを止められる。

 次の瞬間、少し屈んだジャレッドに深くくちびるを合わせられて目を見開く。

 背後の壁に押し付けられ、両手を掴まれてジャレッドの大きな手に頭上で拘束される。

 一瞬だけ抵抗した俺は、思いも寄らず、突然にずっと欲しかったものを与えられた衝撃に、全身が甘く蕩けるように落ちていくのを感じた。


 呼吸を奪うように幾度も角度を変え、深くふかくくちびるを合わせて口腔を探られる。

 胸のうちに秘めた俺のほんとうの想いを探るかのように。

 何も考えられなくなる。

 今の俺の中に存在するのは、ただ、ジャレッドへの想い。

 まだ目の前にいるジャレッドだけ。

 それだけだった。











【next】