【 Adagio 】





(中略)





  
 
 ジャレッドがテキサスから戻った後の、ある遅い朝。玄関のベルが鳴った。

「あれ……ジェン、今日なんか荷物届く予定あったっけ?」

 半身を起こしたジャレッドが腕の中で潜るようにして眠っているジェンセンに聞くと、彼は半分眠ったままもそもそ首を振っている。

 何だろう、と考えている間にももう一度ベルは鳴る。

 放っておくわけにもいかず、仕方なくジャレッドはベッドから這い出てTシャツを被った。

 慌てて走り、キッチンの脇にあるインターホンの受信ボタンを押すと、『ヘイ!ジェンセン、ずいぶん待たせるな。寝てたのか?』とギョロ目のアップが映し出されてぎょっとした。

「あー、あの、どちらさまですか?」

 黙っているわけにもいかずに聞くと、『へ?』と男は引いた。ジェンセンよりちょっと年上のように見える男は、チェックのシャツに、背中に何かギターケースのようなものを担いでいる。

『あれ、ここ、ジェンセン・アクレスの部屋…だよな?』

「あ、はい、彼はまだ寝てて…今起こしてきましょうか?」

『いや、いいよ。バイオリンに用があるだけなんだ』

 そう言われても。勝手に見知らぬ男を部屋に上げてストラドに触らせるわけにはいかない。そう考えていると、『ところで、君、だれ?』と興味深そうな顔をして聞かれ、それはこっちが聞きたいよとジャレッドは思った。

『ジェイソンって言ってもらえればわかる』と言われ、ちょっと待たせてジェンセンを起こす。可哀そうだが仕方がない。

「え、…ジェイソン?…なんで?」

 と、寝ぼけ顔で聞かれて、何でと言われてもとジャレッドも困惑する。「とにかく、今下に来てるんだ、上げてもいい?彼、大丈夫なひと?」友達なの?と聞くと、「うーん、だいじょうぶって言うか…いや、大丈夫だけど、何か問題あったのかな…」
 もそもそというジェンセンは、一応会話をしてはいるけれど、全く目が覚めていない。というか、そもそも目が開いていない。無理もない、明け方まで二人はくっつきあってイロイロしていた。まだ全然睡眠時間が足りていない彼は、多分今もう一度寝かせたらこの会話自体を覚えていないだろう。

 とりあえず上げて待っててもらっとくから、手短にシャワー浴びておいでよ、と促す。するとジェンセンは、自分でも目が覚めていないことを理解しているのか、悪いな、というとよたよたとバスルームに向かった。

 とりあえずインターホンで上がってくるようにジェイソンに言い、ジャレッドは慌ててジーンズを履いて超速で顔だけ洗うと玄関に向かった。


     *


「なあ、君ってもしかして、ジェンのオトコか?」

 言われて、ジャレッドはあんまりにもストレートな聞き方にケトルを落としそうになった。

 ドアを開けると、そこに立っていたのは人懐っこそうな笑みを浮かべた先程の男で、「早くから悪いな」とジャレッドに手を差し出した。促されるまま引き攣った笑顔で握手をしながら、全く状況が読めないジャレッドは、とりあえず部屋に彼を入れて飲み物を勧めると、コーヒーより炭酸がいいと言うので、彼には7UPを、そして手持無沙汰になり、自分とジェンセンの為にコーヒーを淹れることにした。

 その背後に掛けられた言葉に、ジャレッドは一瞬詰まった。だが、はは、と乾いた笑いを浮かべ、質問には答えないまま、「そういうあなたは?」と切り返す。賢いな、と笑われた。

 ジェイソンがジェンセンとどういう関係なのかまったくわからない今、ジャレッドが勝手に何かを言う事も躊躇われる。

「俺は、さしずめジェンセンの大事なお姫さまのお医者さん、ってとこかな」

 謎かけの様な事を言われて意味がわからない。そうかあ、と一人でジャレッドを眺めながら納得しているジェイソンに、何を言っていいのか悩んでいると、シャワーを終えたジェンセンがシャツとジーンズに着替えてリビングに入って来た。

「ジェイソン!待たせて悪い。けど、いきなりどうしたんだ?」

「あー、悪いな、寝てるとこ。こないだ調整した時、慌ただしかったからなんかあとで気になっちゃってさ。お姫さまをちょっと見せてもらえるか?」

 びっくりした顔のジェンセンを引き寄せて、ジェイソンは軽くハグをする。それにジェンセンが全く拒否をしないことに、ジャレッドは驚いて目を見開いた。

 体を離してから、ジェンセンはふと呆然としているジャレッドを見た。ジャレッドの驚きには気付かないのか、どこか慌てたようにジェイソンを見ながら話し始める。

「ジェイソン、彼はジャレッド・パダレッキ。ロスフィルでキムの後を受けて今期から常任指揮者に就任してる。ジェイ、彼はジェフの紹介で、昔からおれのヴァイオリンの調整をしてくれているんだ。もう十年以上になるかな。実業は流しのミュージシャンなんだけど、こう見えて腕は確かで、他の調整師じゃダメなんだ。彼が調整してくれると魂柱とかコマの調子がとにかく抜群にいいから、ずっと頼んでる」

「おいジェンセン、いくら俺が有能だからって、そんなに褒めると彼氏が焼くぞ?」

 紹介したジェンセンはからかうように言われて、「バカ言うなよ」僅かに頬を染めてジェイソンを睨んだ。

「なあ、お前って、元からゲイだったっけ?」

 と、聞いていたジャレッドが仰天するような発言を興味深げに投げかける。だが聞かれたジェンセンのほうは特に驚くでもなくさあ、というように首を傾げた。

「ゲイっていうか、…よく分からないけど」と困ったように答えるのに、ふうん、とどこか優しい目でジェンセンを見つめるとジェイソンはくしゃくしゃと彼の頭を撫でた。―いつもジャレッドがやるのと、同じように。

 だが、肩を竦め、ジェンセンはされるがままになっている。

 驚きに言葉もないジャレッドを後に、ジェンセンは、じゃあちょっと、というと、こっちだ、とジェイソンを楽器を保管してある奥の部屋へ案内していく。

 二人が奥へ消えてから、ジャレッドは椅子にドサッと腰をおろして息を吐いた。

 なんだ。なんだろう、あいつ。悪い奴ではなさそうだが、やたらジェンセンと親しそうで異様に不快感を感じる。今まで、“ヴァイオリンの調整に ”といってジェンセンが出掛けていったことは数回あったが、まさか相手がああいう奴だとは思わなかった。

 悶々としながら考えていると、ドアを閉めていないのか、しばらくして微かな話し声と共に、ヴァイオリンの音階が聞こえてきた。一音一音、確かめるように丁寧に弾き、それから重音を弾く。

 しばらく静かになり、低弦のハイポジションをしつこく確認して、それからツィゴイネルワイゼンの出だしを幾度か繰り返す。納得して調整が終わったのか、音色は止まった。

 三十分も経たないうちに二人は談笑しながらリビングに戻って来た。

「邪魔して悪かったな。次からはいつも通り、俺のうちかホールで調整するようにするから」
とジャレッドにウインクをし、ジェンセンの肩を引き寄せて冗談ぽく大げさに髪に口付ける。仰天するジャレッドとは裏腹に、彼はやめろよ、と軽く押し戻すだけで、やはり逃げはしない。ジェイソンはお前はほんと可愛いなー、と笑うと、もう一度ジェンセンの頭を撫で、ギターケースを担いだ。

 内心の激しい動揺を抑えながら、「良かったら、一緒にブランチでも?」と聞いたジャレッドに、「いや、今日ライブあるし、それにこれ以上邪魔したら、俺ぜったい馬に蹴られて死んじまうから」とにやりと笑い、じゃあまたな、とひらひら手を振ってジェイソンは部屋を出ていった。


     *


 ジェイソンが出ていってすぐ、唐突にジャレッドは「出掛けてくる」と上着と財布だけ持って部屋を出ていってしまった。

 コーヒーは飲んだようだが、ジェイソンの来襲により目覚めたので、多分彼はシャワーも浴びる余裕がなく、食事もしていない。

 どうしたんだろう。とりあえず適当にブランチ用のサラダを千切りながら気にしていると、しばらくしてジャレッドが帰ってきた。

「おかえり。どこ行ってたんだ?」

 慌てて迎えに出て聞くと、「これ」と言って、近所のサンドウィッチが人気の店の紙袋をずいと差し出す。

 ありがとう、と言って受け取ると、「食べてて」と言われて、自分の分を持ってベッドルームの奥、ピアノのある部屋へ行ってしまう。

「ジェイ?」声を掛けたジェンセンの言葉は、バタンとドアを閉めることで遮られた。


     *


 帰って来たジャレッドの様子のおかしさに、とりあえず買ってきてくれたからと好物のサンドウィッチを食べようとしても、気になって二口食べるのが限界で喉を通らない。淹れておいてくれた冷えたコーヒーを啜って、しばらく待ってみてもジャレッドは出てこなかった。

 ジェイソンが来たのが気に障ったのかと思うが、あれはジェンセンが呼んだ訳ではないし、何が嫌だったのか全く分からない。一時間待っても出てくる気配のないジャレッドに、困惑してジェンセンは立ち上がった。

「ジェイ?」

 コンコン、とそっとドアをノックしても返事がない。迷った挙句、そっとドアハンドルを押す。―開いた。

 小さく開けて覗き込む。遮光カーテンを開けた窓からは、昼過ぎの明るい日差しが差し込んでいる。見下ろすとジーンズに包まれたぶらんとした裸足の足先が覗いている。

 ジャレッドは、ピアノの脇に置いたカウチに横になって眠っているようだった。

 一瞬ホッとして、なんでこんなところで、と思う。

 見れば、彼の分のサンドウィッチは手付かずで袋の中に入っているようだ。食欲旺盛で2,3人前くらいぺろりと軽く平らげてしまうジャレッドにしては珍しい。

 そろそろと音を立てないようにして近付く。そっと膝をついて覗き込んでも目覚めない。

 ジャレッドのほうがいつも早起きなので、こうして寝顔を眺めることは珍しい。高い整った鼻梁と、前髪の影が落ちた瞼を眺めていると、なんだかどきどきした。まだ再会して少ししか経っていない。

 時折、こうしてまた一緒に暮らし始めたことが全部夢なのではないかと思うくらいに、ジャレッドの無防備な寝顔はジェンセンの胸を熱くさせた。

 片腕を枕にしてカウチの肘起きから足が完全にはみ出て、どこか窮屈そうに顔を顰めて眠っている。ベッドで体を伸ばして寝たらいいのにと思うが、こうして眠っているのをわざわざ起こすのも躊躇われた。

 熱いコーヒーでも淹れて持ってきたら起きてくれるかなと考えて、立ち上がろうとするとふいに腕を掴まれて驚く。

 いつから気付いていたのか、ジャレッドは目を開けていた。

 青茶の瞳は何故だか少し不機嫌そうにジェンセンを見つめている。

「おどかすなよ…コーヒー、淹れるか?」

「いらない」

 体を起こしながらきっぱりと言い切られて、あれ、と思う。

「お前、なんか、…怒ってるのか?」

 恐る恐る聞くと、ジャレッドは無言で腕を離すと髪をかき上げた。

「あの、ジェイソンは」

 説明しようとしたジェンセンの言葉尻を遮るように、ことばを叩き付けられる。

「あいつ、君のなんなの?」

 キツイ言い方にびっくりして、それでも説明しようとする。

「だから、いつも調整してくれてるんだ、バイオリンの」

「それは分かってる、そうじゃなくて」

 苛々した口調で口籠ると視線を外して言う。

「なんか…前…、…付き合ってたとか、そういう関係じゃないの?」








(一部抜粋)







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※ふたりが再会してから〜の話です。2冊目の「APPASIONATA」を楽しく読めたっぽいかたにはは受け入れてもらえるかも。。。