照明所の概要 Last update on 2010/11 位 置:北緯34°16′38″ 東経135°0′36″ 第3砲台の南東方向350m、標高98m (平栄鼻 通称:赤松) 建設時期:明治23年〜25年頃 もしくは明治33年頃 設 備:口径90cm シュツケルト式探照電灯 1基 存続期間:太平洋戦争終戦時まで |
第3砲台から尾根伝いのほぼ直線の道を南東方向へ350〜400m、標高も第3砲台と同程度なので、第3砲台からは比較的に楽なアクセスとなっている。 この照明所の形態は「昇降隠顕式照明所」と呼ばれ、通常、探照灯(サーチライト)が、常時外部に露出していることはなく、 「電灯井」と呼ばれる竪穴空間の底部にを配置し、この部分を掩灯部として探照灯を格納していた。 探照灯を使用する際は、「照光座 」という探照灯が活動する外部空間まで引き上げる必要があり、エレベーターのような構造の手巻きリフト等によって行った。 大型の探照灯などは、電灯井の底部に格納せず、別に掩灯所という格納施設を設け、 そこから地下通路などをつうじてレールを敷き、台車などにより電灯井底部まで移動させた。 明治期時代の探照灯の照射到達距離は最大でも約6km程度であった。 この照明所の建設時期について明記された資料は手元にないが、第3、4砲台と同時期のものと推測されている。 しかし、穹窿(きゅうりゅう)部はコンクリート製で明治中期の特徴である第3、4砲台ようなレンガ造ではない。 これは併設されている電灯井が構造上コンクリート製であったため、付随して同構造にしたか、外周の土塁だけでは防御的に不足と判断したかと思われる。 もしくは、建設時期が、ずっと後であったという可能性もある。それは、当初、照明所の位置は第1と第3砲台の間の山中とされていたが、 第3砲台の東南突出岬端という現在の位置に変更されており、その資料の軍事機密の受領が明治33年となっているからだ。 このころであれば、穹窿部はコンクリート製であったとしても不思議ではなく、むしろ自然である。 この照明所に電気を供給する発電施設については文献により2説に分かれており、近代築城遺跡研究会編『由良要塞』によれば、 第3砲台の監守衛舎脇の発電所から送電したとされているが、浄法寺朝美著『日本築城史』によれば第3砲台の発電所は第3砲台の施設専用のものであり、 照明所への給電は、現在の桟橋のある野奈浦付近にあった発電所より700mにわたり架空で引いてきたとされている。 距離的な損失と設営コスト、建設時期などを考慮すると第3砲台の発電所からの送電のほうが妥当かとも思われるが、明確なものはない。 |
送電は架空で行われていた。 黒く塗られた御影石柱と木製のケーブル受け、 碍子(がいし)が、道の脇に今も一定間隔で残る。 |
道の突き当たりに照明所がある。 道は比較的わかりやすいし、 左記の電柱が目印になっている。 |
照明所の外観は一般的な棲息掩蔽部で 大きな特徴はない。間口3.8m、高さ3.2m程度の 小規模のものだ。 |
探照灯の操作室(前室)。 巾2.0m、奥行き4.8m程度の細長い部屋。 奥の仕切りより向こうが、掩灯部となる。 |
探照灯の操作室(前室)より外部を見る。 |
向かって左が石積み擁壁、 右側も同じく石積み擁壁だが、 電灯井上部開口(照光座)への階段を兼用している。 |
電灯井上部開口。 所謂、照光座 と呼ばれる引き上げられた探照灯の 活動場所で、通常は鋼製蓋が付いていたと思われる。 |
電灯井を上部より見る。 下の開口部は操作室につながる。 電灯井は1。9m角程度の大きさで深さは4m近くある。 |
電灯井を下部より見る。 探照灯吊り上げ用のレールのボルトが見える。 |
参考資料:
1.『由良要塞』 近代築城遺跡研究会編
2.『明治期国土防衛史』 原 剛
3.『日本築城史−近代の沿岸築城と要塞』 浄法寺朝美
4.『日本の要塞−忘れられた帝国の城塞』 学習研究社
5.『アジア歴史資料センター』 閲覧資料