第四砲台の概要 Last update on 2010/11 |
位 置:北緯34°17′03″ 東経135°0′54″ 第3砲台より東北方向1kmあまり沖の島のほぼ中央部、標高85mの地点 建設時期:明治23年11月〜25年5月 備 砲:28cm榴弾砲x6門 3砲座(各2門) (明治32年12月設置完了) 首 線:南東40°射 界:360° 存続期間:要塞整理期(昭和8年)まで |
第4砲台も第3砲台と同時期に建設され、任務もその榴弾砲による砲戦砲台であることも同様であるため、非常に似かよった機能を持つ。 しかし、備砲等の規模ついて第3砲台の4砲座8門に対して3砲座6門、弾薬支庫数4に対して3と概ね3/4程度のボリュームになっている。 発電所は無いが、監守衛所も現存している。 榴弾砲座特有の2門1砲座楕円形に近い擂り鉢状の砲座3連、土塁によって掩蔽された砲座間の横墻部には地下砲弾運搬通路があり、 通路の長さは22m、砲座の長手方向は18m、砲座中心間隔は40m、第1から第3砲座の端から端までは98mになる。 横墻部地下の砲弾運搬通路中心には揚弾孔が開口しており、直下の地下砲側庫より砲弾を引き上げた。横墻上レベルからは地下2層構造となり、 その地下2階にあたる部分に砲弾運搬通路部とは直行方向に通路が設けられ、外部交通路より階段で下りて、 地下砲側庫に連絡し、階段で砲弾運搬通路につながっている。砲弾運搬通路によっては70cm巾の狭い階段で砲台長の位置に連絡しており、 横墻上部に鍵穴状の形態をもって開口している。最初に記したとおり、第3砲台とはこのように構造上も似かよったものとなっている。 第3砲台と異なる点は、備砲について、榴弾砲以外に12cmカノン砲が2門設置されていた。 時期は把握していないが、位置は右翼砲座を廻り込んだ胸墻側の付属堡塁部正面であったと思われる。 そして、弾薬支庫の防湿換気方式が、第3砲台は、周囲に回廊をもうけたのに対し、第4砲台は、天井面に換気筒を設けている。 また、観測所については非常に特徴的な面を持ち、左翼観測所は第3砲座より100mほど離れた位置に独立してあるが、 右翼観測所は最右翼の横墻部地下砲弾運搬通路の突き当たりより階段で接続している。階段室周囲は回廊になっており、 階段はラセン状をもって地上に開口し、観測所に至る。ラセン階段を持つ施設で現存しているものは、この他に東京湾の第1及び第2海堡等があるが、 知る限りでは、現地確認が可能なものはこの第4砲台のみではないかと思われる。 友ヶ島砲台群のなかで第2砲台と共に第4砲台も昭和に入ってからの要塞再整理及び修正計画で除籍となり、以降廃止されている。80年あまりの歳月を経て、 樹木繁殖と自然浸食により、保存状態は他の砲台と比較しても良いとはいえない。非常に特徴的な面を持つ砲台であるので、今後のある程度の保護は期待したい。 |
棲息掩蔽部(3連弾薬支庫) |
棲息掩蔽部(3連弾薬支庫)内部 |
右翼観測所地下への階段から 第1砲座横墻地下砲弾運搬通路 |
第1〜2砲座間、横墻地下砲側庫 天井面に揚弾孔が見える。 |
第1〜2砲座間、横墻地下砲側庫 換気通路側の面 |
右翼観測所から地下へのラセン階段、 地下への連絡としては珍しい構造 |
右翼観測所 中央部に測遠機設置用のテーブル跡、 鋼製の天蓋と扉があったと思われる。 この観測所から地下を通じて砲座と連絡がとれるが、 このような構造はあまりない。 |
右翼砲台長位置 凹部より横墻地下砲弾運搬通路へ通じる。 |
監守衛宿舎 屋根と内部は崩壊している。 |
参考資料:
1.『由良要塞』 近代築城遺跡研究会編
2.『明治期国土防衛史』 原 剛
3.『日本築城史−近代の沿岸築城と要塞』 浄法寺朝美
4.『日本の要塞−忘れられた帝国の城塞』 学習研究社