第三砲台の概要 Last update on 2010/11 位 置:北緯34°16′49″ 東経135°0′23″ 沖の島西中央部、標高119mの ほぼ島の最高点に位置する 建設時期:明治23年10月 〜25年5月 備 砲:28cm榴弾砲x8門 4砲座(各2門) (明治29年6月設置完了) 首 線: 南西35°射 界:360° 存続期間:太平洋戦争終戦時まで |
友ヶ島砲台群のなかで最大規模のものがこの第3砲台である。榴弾砲座特有の2門1砲座楕円形に近い擂り鉢状の4砲座が連なっている。 砲座間の横墻部には地下砲弾運搬通路があり、土塁によって掩蔽されている。通路の長さは22m、砲座の長手方向は18mある。 したがって砲座中心間隔は40mとなり、第1から第4砲座の端から端までは138mにもわたる。 また島内のほぼ最高点の標高に位置し、榴弾砲等の曲射砲にとって有利な状況となっている。横墻部地下の砲弾運搬通路中心には揚弾孔が開口しており、 直下の地下砲側庫より砲弾を引き上げた。したがって、横墻上レベルからは地下2層構造となる。その地下2階にあたる部分に砲弾運搬通路部とは 直行方向に通路が設けられ、外部交通路より階段で下りて、地下砲側庫に連絡し、階段で砲弾運搬通路につながっている。 直行する通路は3本あり、両翼のものは砲弾運搬通路通路に階段で接続して終りだが、中央にあるものは通り抜けて 胸墻側の階段より外部に出入が可能となっている。その部分は付属堡塁のスペースで中央に井戸を設けられている。 中央の通路に併設されている地下砲側庫は、巾5m奥行き20mにわたる大規模なものだ。 また砲弾運搬通路によっては70cm巾の狭い階段で砲台長の位置に連絡しており、横墻上部に鍵穴状の形態をもって開口している。 砲座と平行にある外部交通路は左翼方向に向かってほぼ地下1層分の斜路になり、下りきったところから棲息掩蔽部(弾薬支庫)が4連 、 突き当たりに独立して1箇所設置されている。この部分が友ヶ島砲台群のなかでも最も知られているロケーションとなっている。 突き当たりの左手はトンネルになっており、抜けた所の広場に監守衛舎と発電所がある。第3砲台は、その規模に応じ付属施設も充実していた。 第3砲台の観測所について、右翼観測所の位置は展望台のあったところと推測され、現存はしていない。 左翼観測所は複数個所あり砲台の端より150mほど東方に離れたところに1箇所跡が残るが、小規模で保存も良くない。 また最左翼の第4砲座の横墻状に2箇所併設跡があるが、保存状態も規模も異なるため、建設時期にも差があると思われる。 また、日露戦争開戦時の緊急配備の際に観測所などが増強されているので関連しているのかもしれない。 第3砲台の榴弾砲8門のうち2門が、明治38年に朝鮮半島の永興港湾要塞へ移転されている。どの砲座のものかは把握していない。 |
棲息掩蔽部(独立弾薬支庫) |
棲息掩蔽部(4連弾薬支庫)内部 |
棲息掩蔽部(4連弾薬支庫)内部 外周換気通路と支庫間連絡口 |
第3〜第4砲座間の横墻地下砲側庫への通路下りる階段 この通路のみ行き止まりではなく、 南西側の付属堡塁(井戸)に連絡する。 |
横墻地下砲弾運搬通路 連通路の中央凹部の床に揚弾孔の蓋、その奥左壁面に 砲台長位置へ上がる階段、さらにそのもう一つ奥左壁面に 横墻地下砲側庫へ下りる階段がある。 |
第3〜第4砲座間の横墻地下砲側庫へ下りる階段 この階段のみ、下り口でクランクする。 |
北西側より第一砲座(2砲床) 奥に横墻地下砲弾運搬通路入口が見える |
南東側通路入口より第一砲座 |
発電所跡 |
参考資料:
1.『由良要塞』 近代築城遺跡研究会編
2.『明治期国土防衛史』 原 剛
3.『日本築城史−近代の沿岸築城と要塞』 浄法寺朝美
4.『日本の要塞−忘れられた帝国の城塞』 学習研究社