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第二砲台の概要
Last update on 2010/11

位  置:北緯34°16′57″
     東経135°0′03″
       第1砲台の北方200mあまり、
     標高10mの池尻浜の海岸線上

建設時期:明治27年8月〜31年4月

備 砲:27cmカノン砲x4門 4砲座(各1門)
    (明治31年12月設置完了)

首 線:北西30°
射 界:200°

存続期間:一部太平洋戦争終戦時まで


第2砲台は、当初の備砲として27cmカノン砲x4門を擁していたが、昭和期の要塞再整理により撤去され、替わりに12cmカノン砲x2門が設置された。
どの砲座に変更設置されたかは、不明。(現存する砲座のアンカーボルト数は、それぞれ同じ)

背墻側から見た砲座間のレンガ造の横墻部は、建物のようにも見えるが、その機能するところは、巾2m、高さ2mの砲弾運搬通路にすぎない。
その中心位置(ちょうど正面出入口部分)に揚弾孔があり地下の砲側庫とつながっている。揚弾孔の深さは2m程度あり、どちらかといえば揚弾井の感がある。
地下の砲側庫は間口5m奥行き9.4mとほぼ標準的な大きさであるが、砲側庫正面に接する上部開放地下通路に対面して、
相当量の棲息掩蔽部を擁しているという、砲台全体としては特徴的な構造を持っている。
また、穹窿(きゅうりゅう=開口部のアーチ)部については、明治中期から後期の建設時期であったため、レンガではなく、コンクリート製となっている。 

第2砲台は、典型的な露天砲台であり、防御的に不利な点を補うため、厚いコンクリートの胸檣を持っているが、
横墻部砲弾運搬通路を構築しているコンクリート面に防水の跡が残されているようなので、尚且つ、その上を海岸線より土塁で覆い、
横檣上面まで掩蔽していたのではなかろうか。そのような構造であったとしたら、現在は護岸の崩壊に伴い、土塁が海中に滑り落ちている状態であると思われる。

第2砲台の保存状況は極めて悪く、友ヶ島砲台群の中で唯一立ち入り禁止となっている。
第1砲座とその右翼横檣は、完全に滅失し、その左翼側横檣も崩壊し、横檣地下部分にある砲側庫も露出して海側へ通じている状態である。
第2砲座はほぼ中央部より分断されて大きな亀裂が入り、胸墻面も海側へ崩落して砲床のみが残されている。

第2砲台の破損が激しい主因として戦後の米軍による爆破という説がオーソライズされており、知る限りの文献、報道においてもこれを否定するものはないが、
近代築城遺跡研究会編『由良要塞』においては、自然風害によるものではないかとし、米軍爆破説については懐疑的である。
これについて、友ヶ島要塞研究者個人としては近代築城遺跡研究会に同意見とすべきところがあり、今後詳細に検証されるべきと考える。





最左翼の第4砲座と横墻部の砲弾運搬通路





第4砲座と横墻部の砲弾運搬通路
通路の開口部が見える




横墻部砲弾運搬通路への正面入り口
美しい!




崩壊した第2砲座と右翼横墻砲弾運搬通路



崩壊した第2砲座の右翼横墻砲弾運搬通路
中央に見える円筒形のコンクリート柱は揚弾孔の跡



胸墻側から見た第4砲座
土塁で掩蔽されたレンガ造の横墻と
陥落したコンクリート製胸墻部が露出している





第4砲座のコンクリート胸墻と
カノン砲の砲床に残るアンカーボルト



第2砲座のカノン砲の砲床とアンカーボルト
胸墻及び横墻部は完全に崩落している



横墻部の砲弾運搬通路の開口部、となりの横墻部まで続く
この時期から穹窿(きゅうりゅう=開口部のアーチ)部が
レンガではなく、コンクリート製となってきている

     参考資料:
   1.由良要塞 近代築城遺跡研究会編
   2.『明治期国土防衛史』 原 剛
   3.『日本築城史−近代の沿岸築城と要塞』 浄法寺朝美

    4.『日本の要塞−忘れられた帝国の城塞』 学習研究社