第一砲台の概要 Last update on 2010/11 位 置:北緯34°16′50″ 東経135°0′0″ 沖の島西端、東経135度の子午線上 標高43m 建設時期:明治22年9月〜23年11月 備 砲:27cmカノン砲x4門 4砲座(各1門) (明治29年10月設置完了) 首 線:南西55°射 界:270° 存続期間:太平洋戦争終戦時ま で |
第1砲台建設予定位置には、明治5年完成の由緒正しい友ヶ島灯台が存在していたが、この砲台の建設のため東へ25m移動されることとなった。 軍の命令だから「どけ」というわけでもなかったであろうが、そんなところではないかと思う。いずれにしても要塞地帯法が制定される以前の話なので、 もし制定後であれば、遥かかなたへの移転となったのではなかろうか。 それでもまだスペースが足りなかったのか、着工近くに敷地狭小を理由に当初6砲座6門の予定を泣く泣く4砲座4門の三分の二に縮小されている。 それが理由かは不明だが、かえってスペースガ中途半端になり、妙にゆったりしているところも見受けられる。 第1砲台は4砲座4門の構成で、それぞれ等間隔で配置されているものの、第1と第2砲座、第3と第4砲座のそれぞれ二つの砲座が1セットになっており、 2砲座で1塹壕、1横墻間地下砲側庫、1観測所というセットでまとまっている。そして、これが対になっているという珍しい形だ。形態としてはほぼシンメトリー。 備砲について、沖の島西端の見晴らしのよい断崖上の位置に大口径のスナイドル社製27cm防盾つきカノン砲が設置されていたということは、 射界の広さからもここを主力の砲戦砲台として位置づけていたようだ。 第1砲台の砲座は樹木の繁殖が激しい上、後年に広場として整地造成され、砲座を囲む横墻、胸墻等の構築物が不明で、砲座の形態が曖昧となっているが、 その砲座位置後方は深さ約4.5m(横墻部の土塁からだと7m以上)にもなる深い塹壕となっており、 この塹壕の壕底を交通路として横墻地下砲側庫などの棲息掩蔽部が設置されている。 第2〜第3砲座間にあたる現灯台施設に面した砲台中央部の横檣は、背檣の土塁まで連続しており、その下部をトンネルとして一対の砲座を塹壕でつなげる形となっている。 現在、棲息掩蔽部にあたるところは、半分以上灯台施設などに流用されているらしく、閉鎖箇所が多い。開放されている部分は傷みが激しい。 そういう意味では、あまり見るべきところがないが、左右両翼の観測所は必見だ。 直接照準をあてるカノン砲の場合、観測所の重要性がいかほどのものかわからないが、榴弾砲の砲台観測所よりは装甲を含めてしっかり作られている。 特に鋼製の装甲掩蓋は両翼共、残ったままになっており、全国的にも大変珍しい例だ。 左翼の観測所上には現在アンテナ施設が在り、右翼の観測所のほうが、状態を把握しやすい。 |
第3砲座の横墻跡に残された伝声管の開口。 陶器製の管を埋め込んでいた。 |
第1第と2砲座、第3と第4砲座の それぞれのグループの塹壕間をつなぐ 背檣部土塁下のレンガ造トンネル。 大規模のものだ。 |
第1第2砲座の塹壕奥にある棲息掩蔽部。 穹窿(きゅうりゅう)部がコンクリート製となっており 他の部分と異なる。建設時期に差があるのかもしれない。 右側の階段は右翼観測所へつながる。 |
第1第2砲座の塹壕奥にある棲息掩蔽部の内部地下通路。 水はけが悪いため、床面がいつもぬかるんでいる。 |
右翼観測所の正面。鉄扉も残っている。 |
右翼観測所の入口を上方から。 周囲をコンクリートと土塁で保護している |
右翼観測所 鋼製の装甲掩蓋。 コンクリートで二重に保護していた。一部が今も残る。 |
右翼観測所 海に面した観測用のスリット。 |
右翼観測所 中央部に測遠機設置用の 3本のコンクリート柱が残る。 |
参考資料:
1.『由良要塞』 近代築城遺跡研究会編
2.『明治期国土防衛史』 原 剛
3.『日本築城史−近代の沿岸築城と要塞』 浄法寺朝美
4.『日本の要塞−忘れられた帝国の城塞』 学習研究社