雑記帳


気がかりなこと

私は家族ともっと暮らしたいと思い呼吸器を装着しました。しかし、私には気がかりのことがあります。それは私がALSを発症したとき、工業高等専門学校に入学した息子のことです。息子は5年間の高等専門学校を終え仙台の大学の3年に編入しました。息子は私と家内のことを考えて地元の大学を選んでくれたんだと思います。家内もそう思っていると思います。息子は本当は専門学校系列の大学で勉強したかったのではないだろうか。しかし、その大学は数ヶ所しかなく県内にはありません。息子が5年の夏、編入試験を受けるよ、と聞いた時、そして、正式に決まったとき、私は「それでいいのか」「良かったな」と言いたかったが、いろいろ思いが駆け巡り結局言うことができませんでした。私はそのことに今も悔やんでいます。
勉学は人の一生を左右する問題です。私が
ALSのため息子の進路を誤らせたのではないか、犠牲にしたのではないか、とすまない気持ちをいつも抱いています。大学院で2年間学びそのまま勤め人となりました。私はこれも本心で決めたのではないだろうと、私は思っています。本当はもっと学びたかったのではないか。しかし、いつまでも学生をしていられないと思い勤め人になったと私はは思っています。人様は簡単に「息子さんは親孝行で良いね」と言います。しかし私としてはそう簡単に喜んでいられません。家族に多大な負担をかける、迷惑をかける、とはこういう事だったのかと、私は痛感しています。こう思っているのは私だけでないでしょう。

                                                                  平成18年5月3日 記

仙台七夕まつり                                                                

10数年ぶりの仙台七夕まつりに出かけた。夕方からのパレード(動く七夕)を見るつもりであったが、途中渋滞にもあわず早く着いた。
受付を済ませ早速商店街に出かけることにした。私の介護人は妻とヘルパーさんの二人だった。ヘルパーさん「私たちで七夕かざり見られますか」担当者「あの人混みでは無理でしょう。」と言う。ボランティアさんに付き添いをお願いした
女子高校生四人と女子大生の五人だった。私はすこしオーバーだなと思った。だがすこしもオーバーではなかった。私は10数年ぶりの七夕の人混みを忘れていた。二人は車椅子の前で人の群れをかき分け、一人は青竹に飾られた高さ四〜五メートルある和紙の吹き流しや千羽鶴短冊などが私の顔にかからぬようにする。車椅子を押すひと、荷物を持つひと。それぞれ役割があるようだった。   
目線が低いせいか下から見上げると色彩が豊富で最後に見たときよりも豪華に見えた。後日新聞に「空き店舗が増えそれを隠すためかざりつけをする。その分余計な出費が増えた」とぼやく店主のコメントがあった。わかるような気がする。しかし伝統はいつまでも現在のまま残してもらいたい。
商店街には車椅子が多くみな歓声をあげていた。またこの日は筋ジスの集まりがあったらしく電動車椅子がめだった。

夕方になりパレードの場に移動した。ボランティアも交代した。女子高校生三人男子高校生一人の四人だった。男子高校生は、理学療法士を目指しているという。と言う体格のいい 高校生だった。
見物場所は定禅通りのメインステージの真ん前だった。
午後五時パレードが始まった。高校 専門学校 町内会 警察署 消防署レスキュー隊 自衛隊 ○○を守る会 ○○を保存する会 趣味愛好会 伝統芸術芸能保存会 地域地方芸術芸能 国 とうとうの演技が、普段着 制服 芸術着芸能着 民族衣装などをまとい、歌 踊り 行進 合奏 模範演技などが、大音響とともに始まった。 地味なグループ 派手な団体 うっとりとする演技 力強い実技 神妙に見入る技。2時間余りに及ぶパレードは大音響とともに終わった。

始めてのパレードだったが見ごたえある動く七夕だった。 なぜ病気の前は見に来なかったのだろう。いまさらながら悔やまれる。
飛び回る人、跳ねる人、楽器を吹く人、太鼓をたたく人、大道具小道具を持つ人、整然と歩く人、車を運転する人、空中で技を披露する人、 パレードの運行に支障がきたさないようにもくもくと進行を務める人。このひとたちは皆この日のために練習を重ねてきたのだろう。演技そのものを職業としている人もいるだろう。しかし大半の人は、仕事や学業の貴重な合間を作って練習をしたのでしょう。皆さんに頭が下がります。いつまでも続いてほしい。



今回仙台七夕まつりを見られたのも、実行委員会の皆さんたすけっとクラブの皆さんボランティアの皆さんのおかげである。学生のかたは貴重な夏休みにもかかわらず、また一般の人も平日にもかかわらずボランティア活動に奉仕していただいた。有り難うございます。しかも一日だけではない。前夜祭の花火大会を含めて四日間である。それも昼と夜だから負担は大きい。たんに興味だけでは務まらない。この日の夜の見物は私と六人の車椅子使用者だった。呼吸器装着は私だけだった。待合室の会話がおもしろかった。「毎年楽しみにいるの」「暇だから来た」「来たくはなかったけれど病院が行って来いといわれた」来たひとにもそれぞれ理由があるんでしょうね。私は私で十二分に楽しませていただいた。実行委員会の皆さんたすけっとクラブの皆さんボランティアの皆さんありがとうございました。
来年は友と一緒にきます。   
                                                  平成15年8月24日  記


ある日の一日

7時 おはよう テレビ 介護人 5時間
ヘルパー2時間
看護婦 1時間
7時半
  |
8時半 
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朝ご飯 パソコン
ヒゲ剃り 歯磨き 洗顔
10時
 |
介護人 ヘルパー マッサージ
10時半
 |
看護婦 散歩
11時半
 |
介護人 ヘルパー     マッサージ
12時
 |
昼ご飯 パソコン
2時
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お風呂        (ラジオ) 
3時
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自由時間 パソコン  (ラジオ)
7時
 |
晩ご飯 テレビ
10時 おやすみなさい 吸引2回

                            平成15年3月10日 記


ある日のごちそう

ポカリ340 ツインライン4〇〇 湯200
ツインライン400 野菜ジュース190 湯200
ツインライン400 湯200

                     平成15年2月22日 記                     


裸参り                

1月14日のどんと祭(※注)が近づいた。どんと祭といえば裸参りだ。 
裸参りといえばあの日の光景が甦る。

団地造成を施工しているお得意さん(ゼネコン)に新年の挨拶をするために現場に向かった。
(おめでとうございます。)「後藤さん頼みがあるんだ」(…)「どんと祭に参加するから用意してくれ。頼むよ」
どんと祭に参加するということは裸参りだ。裸参りに必要な物は、提灯だ。
私の仕事は工事現場で使用する資材や機械の営業です。
ありとあるゆるものを取り扱っている。だが提灯とは仕事とはほど遠い頼みだった。しかし大事なお得意さんの頼みあっては断る訳にもいかず引き受けた。以前にも仕事とは、ほど遠い商品を受注したことが何度もある。これが以外と面白い。
会社にもどり先輩同僚にきくが、提灯は取り扱ったことはないという。電話帳で老舗の店を見つけた。後は交渉するだけだった。だが心配なことが一つあった。それはどんと祭まで日にちが無いことだった。当日までわずか7日しか無かった。そんな心配して店に向かった。
案の定開口一番 (お客さん今日は何日だと思っているの!)店内では職人がせわしなく手を動かしていた。(ダメだダメだ) (とても間に合わない)私は粘った。(…)(無印なら12個あるよ)と店主。
―無印では意味が無いーとわたし。
提灯には、ここぞとばかりアピールするかのように、社名 団体名 マークなどをいれて工夫している。だから無印では意味が無い。粘る。粘る…   そして…
根負けしたのか(14日の昼までなら間に合わせる)と店主。私は丁重に礼を言った。
1月14日。お得意さんに納品。
そして、本来の仕事が順調に行ったのは言うまでもない。

(※注) 正月の松飾りや古神符を焼納する行事で、
20余万人を越す参拝者の中を鈴を鳴らしつつ進む
裸参りも四千人を超し、沖天を焦がす炎と共に
一大壮観にして全国的に名を知られる。
又その火にあたると一年中無病息災で
家業繁栄すると語り伝えられている。
国宝大崎八幡宮HPhttp://www.okos.co.jp/oosaki/より
                                                   平成15年1月11日 記


      里帰り

涙は流さないと誓っていた。しかし母と兄が「お帰り」と言ったとたんボロボロと流れた。5年ぶりの里帰りです。

兄は「家が完成したら迎えにくるから。ベッドも用意しておく」とくる都度言ってくれた。私はその日が待ち遠しいかった。
実家では春から家の建替え中だった。そして先月、「完成」の知らせをうけた。
妻と息子に相談して今月の7, 8日に帰ることに決めた。1週間前からは、胸がワクワクして落ち着かない。まるではじめて遠足を迎える子供のようである。

12月7日。その日がきた。天気もよい。呼吸器装着して2度目の外泊である。慎重に荷物をチェックし12時半出発。
国道を北上して15分。量販店の酒店に着いた。兄弟皆ノンベイですから土産に酒を買う。最後に立ち寄ったのは5年前だが店内も陳列も当時と変わらない。ただ店内中央に100円均一コーナーがあった。
再び北上して10分。有った。見慣れた看板とのれん。看板は字が薄れサビている。のれんは、薄汚れボロボロとかなり使いこんでいる。 
ここは仕事途中に何度も立ち寄った食堂だ。この辺一体は、雪が多く地吹雪も多い。夕方は、下から雪が舞ってきて前が見えない。地吹雪が止むまでこの食堂で一服したことは何度もある。国道の片側は一面の田圃、反対側は民家が建っている。
風で田圃の雪が舞い上がり視界をさえぎる。    
このとき通ったときは風雪の防護柵が設置されていた。これで地吹雪や吹き溜りは大幅に減少するだろう。
しばらく走り県北の都市に入った。
国道沿いは5年前とほとんど変わらなかった。
そして国道を右におれ市道に入った。辺り一面田圃だ。10分程走りガソリンスタンドを左折し町道に入り踏切を渡り県道に入った。。
ここまで来ると実家はもうすぐだ。15分程走ると3年間通った中学校のある町に着いた。当時、田圃だったところは大きく変わった。大型ショッピングセンター ホームセンター 各業種の量販店が出そろっている。県北有数の商業の激戦地区になっている。当時の商店街は、皆平均に賑わっていた。現在の賑わいは一部の特定地区だけだ。既存の商店街は賑わいも人の流れも大きく減少した。      
白鳥が越冬する川を渡り国道に入った。10分程走りバス停を左折して町道に入った。このバス停は、子供のころよく利用した。バス停付近は当時の面影はなくまるで地形が変わったようだ。町道も広くなりカーブもなくなった。5年前とは大きく変っていた。
真新しい家が飛び込んできた。
涙は流さないと誓っていた。しかし母と兄が「お帰り」と言ったとたんボロボロと流れた。5年ぶりの里帰りです。
涙で懐かしい庭も目に入らなかった。
家の中は段差もなく玄関もたっぷりと広い。床の間にはベッドが用意されていた。快適なバリヤフリー住宅だ。茶の間に移りパソコンで挨拶をする。興奮してなかなか指が動かず思うようにパソコン操作が出来ない。   
 母 兄夫婦 甥 姪 姉夫婦 妹夫婦 叔父 親戚 いとこ…で大宴会が始まった。
日本酒 ビール ウイスキー 焼酎 酎ハイなどなんでもある。
皆ノンベイですから見る見るメーターがあがる。
皆メーターが上がるほど勝手なことを言って賑やかな大宴会だ。
私も日本酒を口に含みましたが、まだ味覚は大丈夫なようだった。
ドジョウ汁 あんこ餅 ずんだ餅 エビ納豆餅でしめて大宴会は終わった。
ベッドに入ってもなかなか眠れない。
父とリヤカーを引いて白菜大根売り 母と麦刈り芋掘り 兄とドジョウ捕り山芋堀 姉と田植え稲刈り 妹と母の実家へ…など等。次から次へと想い出す。何故だろう。想い出すのは子供のときの想い出だけだ。
母の側にいるからだろうか。幾つなっても母の側はいいものだ。
父に挨拶をした。(父さんまたきます。母さんがいつまでも元気でいるように守ってください)と頼んだ。
夢心地の2日間は、あっという間に過ぎた。
(母さんまたきます)(あにさんまたきます)(母さん元気で)(あにさん無理をしないで) 母の「風邪ひくな」に涙した。
 …そして故郷をあとにした。
                 平成14年12月27日 記

           様変わり     

山が完全に無くなった。杉林が雑木林が平坦になって何台もの重機が音を立て砂埃を上げ行き来している。
つい最近まで凸凹な姿を露出していた。
現在は大分できあがり一部では建物の建設も始まっている。
看板を見ると商業地区 工業地区 住居地区と区切られている。
商業地区には、大型ショッピングセンター 映画館街 ホームセンターなどが進出の予定をしている。
この秋にはショッピングセンター 映画館街がオープンの予定だったが来春にずれ込むらしい。
ここは自宅から1キロほど離れた団地の南側。

団地に越してきたのは14年前の夏だった。当時は、住居の建築は全区画の半分程度であった。団地の規模は1500区画予定人口は6000人と記憶しています。団地としては小規模な方だ。団地は、この年から建築ラッシュが始まっていた。2学期が始まって見ると転校児童は多く優に1クラス分を超えていた。4〜5年建築ラッシュは続いた。現在は空き地はほとんど無い。区分は南北に3丁目までしかなく、こぢんまりした団地だ。こぢんまりとしているとはいえ小学校中学校スーパーもあって生活には困らない。地理的環境も地下鉄駅へ15分、海へ30分、スキー場へ40分と申し分ない。団地は、一方は国道に面し三方は山に面している。
団地への出入り口は国道の南側と北側の2カ所しかなく、従って出入りする車のほとんどは、団地の住人です。車のことなど気にせずゆっくり散歩ができ、春にはウグイスの鳴き声が聞こえる静かなところです。私自身は、このこぢんまりした団地が気に入っている。ところがこの静けさも近々一変しそうです。

造成も8割方完成している。団地が完成すると現在の3丁目から4丁目5丁目…と大きくなる。大きくなると交通量も増える。新団地の南側に東西に走る道路が通っている。この道路は振興団地とつながっており、また国道を横切り既存の団地ともつながっている。現在は中心部にでるには国道を南下するしかない。それが団地が完成すると団地を経由して中心部に出られる。渋滞に巻き込まれる時間も多少は減少できるかもしれない。これは便利だ。家から直接車椅子でショッピング映画鑑賞と楽しみも多い。また逆のこともいえる。中心部からの迂回路に団地道が利用されて交通量は確実に増える。現在は信号機はないが設置されるかもしれない。いままでは車のことなど気にせず散歩出来たが車が多くなるとそうも行かなくなるかもしれない。こうなると静かだった団地の暮らしも変わるかもしれない。人間なんて身勝手ものだ。自分の都合のいいときは、黙って喜ぶが、逆の立場になるとタラタラと不平不満を言う。

それにしても、宅地は売れるのだろうか。5〜6年前完成した国道をはさんで向かい側の団地は宅地数の割には家は少ない。はたして今度の団地は、売れるのだろうか。お節介ながらも気になる。
町の人口はここ15年で急激に増加した。14年前越してきたときは、24,000人程たった。現在は36,000人を越えている。ハイペースの増加だ。一時人口増加率が全国市町村の上位にランクされた。ここにきて団地が整備された割には転入人口の増加は鈍ってきている。今後は、以前のような現象は起こらないだろう。
杉林 雑木林の消滅の陰で思わぬ被害者がいた。5月か6月の新聞記事に…クマ感電死…。クマが電柱に登り感電死する。周囲の住宅停電する。住処を奪われたのだろう。そういえばこの夏は、セミの鳴き声はあまり聞こえなかった。これも杉林雑木林の消滅の影響かもしれない。
散歩中に栗とドングリを拾った。なんだかホッとして嬉しくなった。普段はあまり感じないが、自然は四季の移り変わりを無言で教えてくれる。こんな自然をこれ以上壊さないでほしい。たとえ雑木林でも。
                                                                      
 
                                                                  平成14年9月23日 記



ALS患者の願い

 ALSは大変な病気です! 進行性の病気ですから 進行したらどうするつもりですか! 介護するのは奥さん一人ですか ALSの介護は24時間眼が離せませんよ とても奥さん一人では介護できません    と妻は私が入退院を繰り返す都度医師、看護婦から言われたそうです。
かと言って長期入院が可能なわけではありません。
不安をあおるようなことばかりで在宅に向けてのよきアドバイスはあまり聞かれなかった。たとえば、同じALS患者でも在宅で頑張っている人もいますよ。こんな何気ない一言で患者も家族も頑張ろうという気も起きてくる。
また意思伝達装置の存在も知らなかった。もちろん入院中も何ら説明はなかった。私は在宅に入ってから、現在の往診の主治医の薦めで初めて意思伝達装置の存在を知った。ALSは確実に言葉を失う。その後の手段を説明をするのも医療従事者の務めではないだろうか。それとも聞かないから説明しないのだろうか。
より良い在宅の仕方、より良い介護のあり方、等告知後の精神的ケアを忘れないでほしい。
  
在宅を初めて7年目を迎えた。悲惨な寝たきりの姿を想像していたが想像に反して散歩、買い物、イベント参加などの外出を楽しみながら在宅生活を送っている。これもひとえに行政の介護支援のおかげと感謝している。
我が家の生活は介護保険と行政の支援事業で成り立っている。

※宮城県
   ホットいきぬきサービス事業(ALS在宅療養介助人派遣事業)1回6時間月4回(自薦)
   指名制介助人::ALS在宅療養介助人派遣事業(冠婚葬祭病気怪我災害等)1回8時間月5回(自薦)
※富谷町
   全身性障害者介助人派遣事業(自薦)週28時間
                                               2002 4月現在

  これらは先輩患者が、行政に何度も何度も訴えそして陳情して実現したものである。また主治医が行政に直接掛け合ってくれた。これまでもヘルパー派遣の介護支援はあるにはあったが、呼吸器装着患者の私をヘルパー一人に任せて家族が外出もできず介護は家族に頼ってきた。
これらの事業は介護のあり方を変えてくれました。しかしながら、ALS患者 家族がよりよい在宅生活おくるためには、時間条件などまだまだ満足できるものではない。指名制介助人 は使いづらい。冠婚葬祭病気怪我災害等はそう頻繁にあるものではない。
ホットいきぬきサービス事業 全身性障害者介助人派遣事業も回数時間ともまだまだ不十分である。待っていただけでは進展しない。より良い方向にするために行政に訴えていきたい。
ALSは最終的に、呼吸器装着か否かの究極の選択を迫られる。呼吸器を選択したくとも、家族の介護の負担を考えて呼吸器をつけるのを拒む患者も少なくないという。これは悲しいことである。
ALS患者は残された人生を家族とともに過ごしたいと願っている。そのためには行政の支援が不可欠である。
すべてのALS患者が、安心してそしてより良い在宅生活を送れるようすべての行政が速やかに介護支援を導入するよう願う。願わくば24時間365日無制限にそして自由につかえる介護支援でありたい。

ALSは個人差はありますが確実に進行します。そして言葉を失います。
意思の伝達方法として意思伝達装置が給付されます。
給付方法は各行政によってまちまちのようです。
ALSと診断(告知)されてもある程度進行しないと給付されません。 
パソコン知識がない患者が、特殊なソフト、特殊なスイッチを使ってパソコン操作を覚えるのは、大変な労力と忍耐が必要です。
すこしでも身体の自由が利くうちに 意思伝達装置の給付が受けられればと思います。
ALSと診断(告知)された時点で、給付が受けられればより多くの患者がパソコンに向き合う機会が増える。
行政の速やかな対応を願う。 

                                          平成14年5月記


名前の呼び方と言葉の使い方

   名前の呼び方

人を呼ぶとき姓で呼ぶのが一般的ではないだろうか。中にはあだ名や名で呼ぶこともあるかもしれない。それは親しい間柄だこそだ。
ところが病人になると初対面の人からいきなり名で呼ばれる。それも全く赤の他人からである。
「忠治さんはじめまして」。オイオイ初めてだったら(後藤さん)と呼べよ…
どうもこういう呼び方は介護(看護)従事者に多い。わたしは名を呼ばれた記憶は、親兄弟親戚だけである。
過去赤の他人から名で呼ばれたのは、役所の窓口で名前を確認されたときぐらいである。
よく聞いていると病人は名で呼び、そうでない人は姓で呼んでいる。しっかりと病人と健常者の呼び方を区別している。
介護(看護)社会にはこういうマニュアルでもあるのだろうか。

   言葉の使い方

(お顔を拭きましょうね)(お熱をはかりましょうね)こんな言葉づかいをする人もいる。自分で自分が情けなくなる。
これではまるで幼稚園児や意識のない病人である。
我々ALS患者は動けない、話せないだけで理解力、判断力、決断力は健常者と何ら変わない。
私も含めてほとんどの仲間はほんの数年前までは、社会の第一線でバリバリと行動してきた。家庭では現在もバリバリの現役で自立しているのである。
介護(看護)従事者が、もし自分より年下の人からこんな言われかたを、されたらどんな気持ちがするだろうか。よく考えてもらいたい。
ALS患者に限らず在宅患者に接するときは年齢層、症状を考慮して接してもらいたい。

                                              平成14年2月記