筋萎縮性側索硬化症(ALS

私は40代後半に筋萎縮性側索硬化症(ALS)を発症しました。私はこどもたちの成長を見届けたい。家内ともうすこし一緒にいたいを生き甲斐に呼吸器装着を選択しました。

家内に支えられ励まされ、こどもたちに支えられ励まされ、母に支えられ励まされ、兄姉妹に支えられ励まされ、地域の人に支えられ励まされ、在宅医に支えられ励まされ、訪問看護師に支えられ励まされ、ヘルパーさんに支えられ励まされ、仲間に支えられ励まされ、行政に支えられ励まされました。

発症当時、高等専門学校、中学校に入学しこどもたちが社会人となり、親としての責任を果たすこともできました。支え励ましてくれた多くのみな様に感謝です。

 しかしその一方で、この間に多くの仲間が力尽き旅立って逝きました。時の流れの現実を思い知らされました。 

一度は諦めかけた命。生きた命。いかされた命。大事に大事に生きたい。

力尽き旅立って逝った多くの仲間のために。支え励ましてくれた多くのみな様のために。大事に大事に生きたい。

 

私が在宅療養をはじめた当時、公的なヘルパー支援は社会福祉協議会だけでした。

国、自治体は家族の介護負担軽減の為制度を施行。 

ALS在宅療養介助人派遣事業】【宮城県】

     平成11年              (1999年)1215日施行

              (ホットいきぬきサービス)1回6時間月4回

               (指名制)(冠婚葬祭病気怪我災害等)1回8時間月5回

 

全身性障害者介助人派遣事業】【富谷町】

     平成12年(2000年)4月施行

                    (障害者自立支援法施行後に無くなる)

介護保険      平成12年(2000年)4月施行

障害者自立支援法  平成18年(2006年) 4月一部施行

                         10月本格施行

これらの制度を利用して一人でも多くの患者が呼吸器装着を選択してALSと向き合ってほしいと思います。

          平成24120() ー平成24326() 

 

筋萎縮性側索硬化症(ALS)闘病記(1)

                                                                            綴る平成16年4月13日〜平成23212

家内今日も出かけていった。遅くなるだろうなと思った。しかし、2時間ほどすると、聞き慣れたエンジン音が、角を曲がって家の前でエンジンを切らずに止まった。家内だった。ドタドタと走り「お父さんトイレ間に合った!」、と靴もそろえず部屋へ駆け込んできた。

前はタッタタッタだったが、気が重くなったのか、体が重くなったのか、わからないが、今はドタドタになっていた。

そしてカーテンが閉められた。ほどなく、家内はゆっくりと歩いて出ていき、又車で出掛けていった。こんな生活になってからもう十年以上も過ぎてしまった。

私は昭和24年、県北の専業農家の次男として生まれました。46歳で発症しました。晩酌は欠かしたことはなく、タバコは1日40本、釣り、登山、キャンプとアウトドアが趣味の丈夫だけが取り柄の俺が何故ALSに。今までも問いかけています。

20代前半のころ、ボランティア活動に熱心だったひとりの同僚がいました。私も興味本位で1度同行しました。施設で生活している障害者の外出手伝いでした。車椅子にきちんと乗っている人、前のめりに乗っている人、ことばもはっきり聞き取れない。当時はまだ車椅子で、それも団体で外出をするのは珍しく、行き交う人々はみな振り返っていました。それでも、彼らはみな楽しそうでした。同僚は職場の顔と違って生き生きしていました。私はというと、恥ずかしい、2度と行きたくない、他人に手伝って貰っても外出したいのか。でした。いくら20そこそこといえ、今考えると余りにも愚かで恥ずかしい考えでした。

それから時が流れ、筋萎縮性側索硬化症という訳の分からない、それも治る見込みのない病気を発症しました。将来は車椅子生活になると聞いたとき彼らを思いだした。しだいに手の自由が奪われ、ろれつが回らなくなり、歩けなくなって車椅子に、ついには人工呼吸器という生命維持装置まで着けてしまった。恥ずかしい、無様な姿を人に見られたくない、見せたくない。との思いが強く、絶対に出ない、と頑固でした。しかし、外出の楽しさを知って彼らの思いがようやく理解できました。もちろん、家内ひとりでは車椅子へ移乗できません。ヘルパーさんに手伝ってもらいます。他人に手伝ってもらっても外出したいのか、と言っていた自分が同じ障害者になって、いろいろな人に助けられて生活しているのになにか運命的のものを感じます。あのとき、もうすこし真剣に向き合っていれば、と障害者になった今悔やまれてなりません。

 

                     ー肩がおかしいー

私がずっと家にいるようになったのは、四十八歳の春、平成九年三月二十一日からだった。

私が肩が変だと気がついたのは、平成七年、長男の高等専門学校、次男の中学校の入学式が終わって、ほっとした頃だった。

私はいつもボールペンを持っていて右手で左肩をギュッと押しつけていた。それも力一杯押しつけるので、ボギッとボールペンが何本も折れた。私はその瞬間フーと気持ちよさそうに溜息を漏らした。

             ー肩がおかしい…五十肩!ー

私は、大のお酒好きで晩酌は欠かしたことはなく、タバコは一日四十本、趣味は釣り、登山、キャンプなどのアウトドアで、過去に風邪らしい風邪もひいたこともなく、会社の年に一度の健康診断にも引っかかったことはなく、健康には全面的に自信を持っていた。

だが、私は持病の腰痛を二十歳代から抱えていた。兆しがでると、いきつきの接骨医で、マッサージを受けていた。肩こりは、過去に何度もあり、二ー三日もすると何事もなかったような、元気な肩に戻った。

しかし、私は今回の肩こりは今までのそれとは、全く異質のように思えた。腕にだるさを覚えたからだ。こんなことは、過去に記憶はなかった。それでも、私は、腰痛のせいだ、いや五十肩だ。と、単純に思いこんだ。家内も同じ考えだった。

一週間、二週間。元気な肩には戻らない。私は、思いあまって「肩の張りがとれない」と、マッサージを受けながら訴えた。訊いていた接骨医は、「後藤さんいつ頃からこんなふうになりました!」、私は、一瞬何のことなのか分らなかった。数秒後、意味を理解した。接骨医の腕に抱かれた、私の左手が目の前にあり、接骨医の指が、その手の親指と人差し指の間をさすった。私は、「あっ」、と声を出した。そこは何かでそり落としたように痩せ細っていた。

右手とくらべると違いは、一目瞭然だった。「何で気づかなかっただろう」、私は、頭を振った。

そして、接骨医は言った。「後藤さん、これは腰痛や五十肩のせいでありませんね」「整形外科で診てもらった方が良いでしょう。紹介状を用意しましょう」接骨医は何でもないような顔で言った。私は、胸がざわつくのを感じた。

 

                          ー検査ー

翌日、は、紹介先の整形外科医院へ向かった。

整形外科医院の待合室は通院患者で溢れていたが、紹介状を差し出すとすぐ診察室へ通された。医師は、型通りに聴診器を胸と背中に当てた。両腕を肩まで上げ、肘の曲げ伸ばしを繰り返し、問題の痩せ細った手を見つめ、レントゲン撮影しましょう、と、言った。そして、「肘の骨が神経を圧迫していますね」写真に視線を向けながら言った。骨は削った方がいいでしょう。

「紹介状を書きますから、総合病院の整形外科で診察を受けてください」医師は、視線を私の顔に戻して言った。治りますかね、私は、医師の顔を見つめて訊いた。簡単な手術ですよ、医師は言った。

私は総合病院へ向かうことにした。腕時計が11時を指している。ハンドルを握る手が気になる。指摘された、痩せ細った指の間に視線が移る。痩せ細ったのは、いつの頃からだったのだろうか、毎日ハンドルを握っているのに、なぜ、気づかなかっただろう、人の記憶は当てにならないと、思った。

総合病院は人で混雑しており、通院患者か、見舞客かあるいは付き添い人か、見分けがつかない。かろうじて受付に間に合った。

私は、四十過ぎの白髪交じりの医師に、これまでの経過を詳しく話した。ただ、今までの肩こりは二ー三日で解消したこと、先ほどの整形外科医の話し、そして、今回はだるさがあることを強調した。

白髪交じりの医師は、整形外科医の紹介状に目を通し、私の話を頷きながら訊いた。痩せ細った左手を右手と見比べ、レントゲン撮影室に案内された。医師は、写真を見て首をかしげた。そして、廊下を十bほど歩かされた。それを白髪交じりの医師はジッと見ていた。私はそのことがとても気になった。最後に採血して、診察が終わった。

なぜ、肘の骨の話しがでなかったのか、なぜ、医師は首をかしげたのか。それよりも、歩かされたのが気になった。以前テレビで、脳になんらかの異常があると、真っ直ぐに歩けない、という番組を見た記憶があった。間違いなく、真っ直ぐに歩けた、と不安を打ち消すように、自分に言いきかせた。が、前兆かも知れない、と頭の片隅に浮かんでは消えた。私は不安の渦が、胸全体に広がるのを感じ取った。

私は、明日、違う病院にいくことに決めていた。夜、家内に診察の様子を話した。家内は、大丈夫よ、たいしたこと無いから、と、五十肩と決めつけていた。

病院は、外科、内科、整形外科などの複数の診療科を備え入院棟もある開業医だった。医師の診察は総合病院とまったく同じで、肘の骨の話しもでなかった。

一週間後、総合病院で採血の結果を訊いた。血液検査では異常はありません、医師は表情を変えずに続けた。「MRI検査しましょう」

また、検査かぁ。いつになったら病名がわかるんだ、と私は声を出さずに呟いた。三週間も待たされたあげく、診断がつかなかった。

「次回は神経内科を受診してください」と白髪交じりの医師はカルテに視線を落として、言った。こんどは神経内科…。私は苛立ちを押し殺して医師に頭を下げた。そして、声にならぬ声でため息をはき出した。

受診の日、神経内科の医師はカルテを見るなりいきなり、左腕の肩と肘の中間に細い針を二本刺して電気を流した。これは筋電検査といって筋肉を流れる電気の…などの説明受けるが難しすぎて理解できなかった。一瞬、鋭い痛みが走り、顔をしかめて医師の顔を見つめた。針と繋がれた計器と整形外科から取り寄せたカルテを見つめた。その直後、医師は口元を引きしめ「大学病院に連絡しますから、きちんとした検査を受けてください」と言った。私は、「……」声にならぬ声を吐き出し、歪んだ顔を天井に向けた。

医師は診察室から二十分ほど消えた。どうやら電話を掛けに行ったらしい。目の前に電話があるのに、よほどには聞かれたのではまずい内容だったのだろう。戻ってきた医師の表情曇っていた。おそらく大学病院の医師とのやりとりで、おおよその診断がついたのだろう。と想像した。診察が終わり私は待合室で会計を待った。入院時期はあとで連絡をしてくれるという。

出口へ向かった。看護師が走ってきた。「診察室に戻ってください。先生が待っています」私は急いだ。医師はカルテを見ていた。そして、連絡がつきましたので十二月に検査入院してください、と、口元を引きしめて言った。

は、苛立ちを体中に表して病院を出た。

前方を見つめる視線が定まらない。沸々と沸き上がる不安の泡が全身を包んだ。 

                           ー検査入院ー

「手術なんかするんですか。入院は長く掛かりますか」私は医師の顔を遠慮がちに見つめて訊いた。医師は「検査次第です」と表情を変えずに答えた。この日、私と家内は、髭剃り歯ブラシ下着、と簡単な日用品を用意して、緊張した面持ちで外来室の丸いすに座っていた。そして、簡単な問診を終え病室へ案内された。

病室は渡り廊下を通り過ぎ、この病院では古いと思われる病棟四階のナースステーション近くの大部屋だった。

大部屋に一歩踏み込んだ瞬間、沈黙の出迎えを受けた。私は部屋を見渡した。そこには五人の患者がただ一心に天井を見つめて横たわっていた。それらの人はみな年老いた人と一目で分った。

この夜、私はうたた寝状態で朝を迎えた。朝食を食べ終えると看護師が(午後部屋を移りますからね)と耳打ちしてくれた。突然の話しだったが、私は安堵した。移った部屋は、同じ階の突き当たりの六人の大部屋で、私のベッドは窓際だった。部屋の雰囲気、患者の歳、症状の重さなど前の部屋とは格段の違いがあるなあ。と、その時は思った。

私より若い人もおり、隣のベッドの人は私と同じ歳ぐらいに見えた。後にこの人は私と同じ病名と知った。

その人は、ベッドから一歩を踏み出すまで、とても時間がかかり歩く後ろ姿も、肩を落とし今にも倒れそうな足取りだった。私は、大変な病気があるんだなあ、と同情の顔をした。

向かいの人は、私より若く地元のありとあらゆる病院にかかったが、病名さえつかずこの宮城の病院へ回されたという。あらゆる検査をしてもらって、病名と治療法が解ったら地元の病院で治療したい、と言った。

年配の二人も地域の病院から回されてきたという。彼らは普通に歩いてどこが悪くて病室にいるのかわからない。ある日、若い人に「どこが悪いんですか」と聞いた。そしたら、怪訝そうな顔で「後藤さんは」と逆に聞かれてしまった。(今検査…)と曖昧に言った。そうか、難しい病気だからここに回されたんだ。聞かなきゃ良かった。私は痒くもないのに鼻を掻いた。

翌日から血液検査 レントゲン 筋電図 CT MRIと毎日検査が行われた。担当の先生は、若い小柄の綺麗な女医さんだった。私は若い女医さんに(この先生で大丈夫かな)と心配になった。

しかし、先生は顔に似合わず大胆な検査を平気でする。筋肉に針を刺し電気を流す。ピリピリと全身に痛みが走った。私はこの検査に参ってしまって先生に聞いた。「この検査は今日で終わりですか」 先生「もう1度検査します。」と言った。私は顔をしかめた。しかし、それ以上に辛い検査が私を待っていた。骨髄に針を刺し髄液を取り出す検査だった。

翌日、先生はベッドの脇にかがんで「後藤さんはじめますからシャツを脱いでください」私はパジャマを脱いだ。「はじめます、消毒します」「はい背中を丸めてください」私は体をエビ状に曲げベッドの手摺りにしがみついた。針が体の中に進入してくるのがわかった。同時に激痛が体の中心を貫いた。(こんな辛い検査は二度としたくないな)激痛に耐えながら呟いた。翌日から一週間、髄液が回復するまで頭痛苦しんだ。

入院から二週間が過ぎすべての検査が終わった。あとはどんな病気なのか説明を受けるだけだった。そして、私と家内はナース室の片隅に案内された。先生は普段診察しているより硬い表情の顔で「後藤さんの病気は運動ニューロン」です。「原因不明の運動神経だけが壊れていく神経難病です。」「残念ですが現在の医学では治すことはできません。治療薬も今のところありません。」と先生は説明を続けた。

そして、先生は背筋をぴんと伸ばし「最善の対処をしていきますから」と私と家内の不安を消すように言った。

私と家内は互いに顔を見合った。初めて耳にする病名で何を聞いていいかわからず無言で聞くしかなかった。そして、先生は最後に「階段の上がり下がりには十分に気をつけてください。」言葉を慎重に選びながら言った。その表情は苦しげに見えた。

私は思った。医師として治せない無力さを感じたのだろうか。それとも、私の行く末を案じてくれたのだろうか。私は当時を思いだし、先生の人間味を感じた。

(階段の上がり下がりに気をつけてください。)(最善の対処)って。私は呟いた。その時は、言葉の意味が理解できなかった。が胸に引っかかるものがあった。数年後、言葉の意味がどんなに重要だったかを、私は身をもって知った。私と家内は、よろめくように立ち上がり形ばかりの頭を下げナース室を出た。

私と家内の足取りは重く、まるで鉛の靴を履いているようだった。

病室に戻っても私と家内の顔はこわばった表情をしていて、誰も声をかけてくれなかった。

暮れも押し詰まった頃、外は白い世界に覆われていた。私は外を見ながら(この雪じゃ会社はてんてこ舞いだな)(俺の身体もてんてこ舞いだよ)声を出さずに言った。私は、正月を自宅で過ごしたい、と先生におそるおそる尋ねた。先生は(いいですよ。ゆっくり過ごしてきてください)とあっさり許可してくれた。

二十九日、家内とこどもたちと買い物をしながら家に帰った私は「チャムただいま」と頭を撫でた。私はしばらくぶりに帰ったのだから、少しだけ笑顔をつくった。それでもいつものように家族で正月を祝い、私は暫くぶりの百薬の長に酔った。酔っているときは運動ニューロンのことは忘れることが出来た。正月が過ぎ、私は病院へ戻った。

この病院では将来の一人前の医師を育てるため、経験の浅い医師や医学生を経験豊富な医師が患者のベッドサイドで、病名、現在の症状、これからの検査方法、これからの治療法などを医師用語を交えて指導する。それは、総回診と言って週一回おこなわれた。

額に多くの皺をため込んだ経験豊富な医師が、担当医師の話しを訊きながら「それで、これからの…」と言って経験の浅い医師や医学生たちの顔を見る。時折、横文字の単語が聞こえた。あ、これが医師用語なんだな、思った。

五人のベッドサイドでの指導を終えた額に多くの皺をため込んだ経験豊富な医師、経験の浅い医師や医学生たちがゾロゾロ私のベッドサイドに集まった。「何か気になることありますか」額に多くの皺をため込んだ経験豊富な医師は口を開いた。「膝が崩れそうだということですが」と先生は私が口を開く前に言った。

歩いているとき突然、膝が崩れ落ち、永遠に歩けないのではないかと,という恐怖感が何度かあった。私は、そのこと先生には訴えていた。額に多くの皺をため込んだ経験豊富な医師は口元を引き締め、線の上を歩いてみてください、と病室の中央の床に顔を向けた。経験の浅い医師や医学生も同じ動作をした。私は顔をしかめベッドから降りた。

テレビで観た(脳に異常があると真っ直ぐには歩けない)が蘇った。みんなの視線を気にしながら私は歩いた。窓際から引かれた幅10センチほどの白い線が、私の運命を決定する生き物のように見えた。万が一踏み外すと、お前の脳は病んでいる、お前の今後はない。叫んでいる姿が頭の片隅に浮かんだ。それを振り払うかのように(よし、大丈夫だ。真っ直ぐ歩いた。)私は強く胸に言い聞かせた。総回診が終わると誰と無く、ふーと息を吐き出した。

毎回、総回診は患者そっちのけだったが(一人前の医師になってもらうためだ)と患者たちは無理矢理に納得した。

平成八年一月九日、大雪の日に退院した。退院するとき、何も知らない患者さんが、(お、いいですね。退院ですか)と声をかけてきた。が、私と家内の顔には笑顔は無かった。隣の人は暮れを待たずに退院していた。私より二歳上だと言ってたが、いまでも気になっている。


20代の頃、職場にボランティア活動に熱心だったひとりの同僚がいました。私も興味本位で1度同行しました。施設で生活している障害者の外出手伝いでした。車椅子にきちんと乗っている人、前のめりに乗っている人、ことばもはっきり聞き取れない。当時はまだ車椅子で、それも団体で外出をするのは珍しく、行き交う人々はみな振り返っていました。それでも、彼らはみな楽しそうでした。同僚は職場の顔と違って生き生きしていました。私はというと、恥ずかしい、2度と行きたくない、他人に手伝って貰っても外出したいのか。でした。いくら20そこそこといえ、今考えると余りにも愚かで恥ずかしい考えでした。

それから20数年後、筋萎縮性側索硬化症という訳の分からない、それも治る見込みのない病気を発症しました。将来は車椅子生活になると聞いたとき、彼らを思いだしました。しだいにの自由が奪われ、ろれつが回らなくなり、歩けなくなって車椅子に、ついには人工呼吸器という生命維持装置まで着けてしまいました。恥ずかしい、無様な姿を人に見られたくない、見せたくない。との思いが強く、絶対に出ない、と頑固でした。しかし、外出の楽しさを知って彼らの思いがようやく理解できました。もちろん、家内ひとりでは車椅子へ移乗できません。ヘルパーさんに手伝ってもらいます。他人に手伝ってもらっても外出したいのか、と思っていいた自分が同じ障害者になって、いろいろな人に助けられて生活していることになにか運命的のものを感じます

 

                              〜職場復帰と期待〜

私は、10日ほど休養して職場へ復帰した。復帰する前、気分転換しよう、と牡鹿半島へ一泊の小旅行した。こどもたちはそれなりに楽しんだようだった。しかし、私と家内には気分転換にならなかった。

家内は退院の日、先生より精確な病名を《筋萎縮性側索硬化症ALS》と告知された。原因不明 治療法治療薬も無く、近い将来車いす生活になるかもしれません。とも言われた。先生はにも告知しょうとしたが、家内はこれを断った。とずっとあとになって私に言った。

私は元来仕事大好き人間だったが、職場に復帰すると病気を忘れるようにより仕事に没頭した。それでも病気は容赦なく進行していた。腕の動きが鈍くなり足ももつれ始め、ときには崩れ落ちた。それでも仕事に没頭した。

異変を感じて翌年(平成8年)の春「肩から手電極(ワイヤー)を埋め込んで筋肉を刺激する電気刺激療法(FESがありますが、説明を聞いてみますか」と話しがあった。私は「是非聞きたい」とその場でお願いをした。私は通院の都度、腕の動きがだんだん悪くなっている、と訴えていた。この治療は腕のなかに細い電極を埋め込み電気を流し、直接筋肉を刺激して腕の動きをよくする方法だという。担当の医師の診察を受け、説明を聞いた。この治療は保険が効かず、全額自費と聞いて一瞬躊躇したが、腕の筋力の衰えを少しでも遅らせるには他に方法が無い、と思い電極埋め込み手術をする決意をした。手術は五月二十九日ときまった。

入院前の連休を利用して、家族で山形・由良へ。 由良は夕日の奇麗な海岸として知られており、そのとおり見事な夕日だった。私は島の急な階段もなんとか上がる事が出来、小さなお宮に、完治しなくてもいい、せめて進行を止めておくれ、と願い事をした。宿の料理は美味しかったね、家内は今でも懐かしそうに言います。


平成八年五月二十九日。五時間に及んだ手術が無事に済んだ。

手術から二日後、電極に電気を流す刺激が始まった。肩と肘の真ん中あたりに髪の毛よりも細いワイヤーが一五本でていて、小さなプラスチックのなかにまとまっていた。これに小さい箱に収められたコンピューターで制御された回路につないで電気を流す。両腕は軽くそして楽に腕が上がった。私は心の中で万歳を繰り返した。腕の動きがいつまでも続くよう電気刺激療法(FESに望みを託した。

 

十月。私は外回りから内勤中心の仕事にしてもらった。この頃になると口はろれつの回りが悪くなる一方で、このままではいずれ電話での応対も難しくなるだろう、と思った。

私は書店に行き、今まで手にした事がない分厚い社会保険関係の本を購入した。このまま進行が続けばいずれ会社を辞める時が来る。それでも家族の生活を守らなければならなかった。それには、社会保険の任意継続は何年か、金額はいくらか、失業保険の受給期間金額、障害年金はもらえるのか、いくらもらえるのか、などを事前に知っておく必要がある、と思った。 退職した場合、経済的な問題に直面するだろう。生活費、子供の教育費、住宅ローン等を考えた私は頭を抱え込んだ。

 

十二月になると、手足が冷えて苦しくなって、左手に手袋を嵌めしかし、手袋と靴下だけでは温もりが感じられなくなり、手袋と靴下の中に懐炉を貼り付けた。とくに左手がひどく仕事中もしたままだった。

申請していた[特定疾患医療受給者証]が暮れに届いた。私は自分の病気が運動ニューロンではなく[筋萎縮性側索硬化症]であることを知った。いまさら病名を知ったところでしょうがないと思った。それでも、本屋の医学書で調べようとしたが、棚の上段まで腕が上がらず諦めた。これ以来医学書は見ていない。 

望みを託した電気刺激療法(FES)、115分を毎日6回続けた。しかし、夏が終わり、遠き山々が薄化粧を始めた頃、腕の動きが悪くなった。握力も急激に落ちてきた。いくら電圧を調整しても、刺激療法を始めたときのようには戻らなかった。最新の高度医療をもっても腕の動きさえ維持できない。この病気は原因不明で治療法も治療薬もありません。が甦り、私は唇を噛み締めた。それでも私は115分一日6回の刺激療法に一途の望みを託した。しかし、刺激療法は腕を以前のように動かすことはなかった。

出勤するとき「チャム行って来るよ」と頭と喉を撫で「チャム帰ってきたよ」、と頭を撫でて家に入る。これが私の日課になっていた。しかし、この仕草が、夏の終わり頃からぎこちなくなっていた。以前は、頭を撫で立ち上がるとき、体は自然に動いた。しかし、このころになると立ち上がるとき、体はもたつき、脚はふらつき、腕の動きも悪くなっていた。

そして、小雪のちらつく朝、私は気がついた。それは、いつもの出勤するときのことだった。車のドアを開けるとき2本指で開けるのが、私の癖だった。だが違っていた。4本の指をドアに引っかけ、右手首を左手が支えていた。エンジンキーも指だけでは回せなくなった。たばこも100円硬貨も指先で持てなくなった。月一度の通院もひとりでは難しくなり家内に付き添ってもらうようになった。

私の握力は車を運転するには限界に近かった。体内に黙って入り込んだ憎い病魔は、自由を徐々に奪い始めていた。そして、「チャム」、と、呼ぶ、発音も怪しくなっていた。電話で、「後藤さん、酔っているの!」と、言わることに大きな衝撃を受けた。ついに、仕事にまで影響するようになった、と、私は、仕事から離れる日が近いことになるだろう、と覚悟した。そして筋萎縮性側索硬化症を憎んだ。

 

                        〜さらば職場〜

その日は平成9年3月20日。この日のことは忘れることは出来ません。この日、公私ともにお世話になった上司に家内とお礼を言い別れを告げました。このことは、自分が治りそうもない病気に罹患したのを再確認した瞬間でもありました。帰りの車の中で、私と家内は大声で泣いた。夜、こどもたちに話しました。が、感じ取っていたらしく頷くだけで何も言いませんでした。進学、生活、住宅ローンはどうなる。と不安が次々と頭をよぎりました。次男は翌年高校進学を控えていてどんな思いで聞いていたのかと思うと今でも胸が痛みます。この夜、はじめてこどもたちの前で涙を流しました。 

翌日から、病院 社会保険事務所 保健所 役所 銀行へ連日出掛けた。私は家族の生活を守るのに必死だった。まずこれからの生活費を確保することが最優先だった。

最初に障害年金の手続きをすることにした。それには初診より16ヶ月経過していることを証明する書面が必要だった。検査入院病院を紹介してくれた総合病院に診断書を貰う手続きをした。

これからの我が家の唯一の収入源は障害年金だけ。そのため、慎重を期すため私と家内は何度も社会保険事務所へ足を運んだ。窓口の担当者はしつこい質問にもいやな顔をせず丁重に対応してくれた。

次に足を運んだのはハローワークだった。失業保険給付の手続きをするためだった。担当者は私の身体に同情したのか不憫と思ったのか、事細かく説明してくれた。3度目の往来で失業保険給付の手続きは終わった。

私と家内は再び社会保険事務所へ足を運んだ。健康保険の説明を受けるためだった。会社の健康保険は2年延長できることは知っていた。が保険料が問題だった。前年の収入で保険料が決定されるという。その保険料を聞いて「うわ、高い」と、私と家内は驚いてしまった。今までは会社が半分負担していたのでなにも感じなかった。改めて会社のありがたさを実感した。私は国民健康保険の保険料を聞いた。しかし、こちらも前年の収入が基準だった。私は迷わず会社の保険を延長した。私は、さあもう一息だ、と自分を励ました。

私は住宅ローンになにか手立てはないか考えた。障害年金で家族の生活を守り住宅ローンの支払いは不可能だった。しかし、私には知識は全くなかった。

私と家内は住宅金融金庫を訪ねた。だが、相談おろか話しも聞こうともしなかった。私は頭を抱え込んだ。だが、簡単には諦めるわけにはいかない。家族の生活がかかっている。

私は書類(団体生命保険)に何年ぶりかで目を通した。目を通しているうちに「重度障害」を意味する聞き慣れない表現のところで目が止まった。(これだ、なんとかなる)と、私は直感した。と、同時に何ともしれぬ虚しさが身体中にこみ上げてきた。そこには、契約者が重度障害者になった場合、契約者にかわって保険会社が支払うということが記載されていた。

つまり筋萎縮性側索硬化症(ALS)患者は死亡と同じ扱いということだった。ローンという重たい支払いから解放されたと言え、虚しさと切なさとが入り交じった複雑な思いで手続きを終えた。

私は身体を引きずりながら家内の肩にしがみつきすべての手続きを終えたときようやく退職したことを実感した。

 

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