
今夜も釣り針のように光る銀の月が昇る。
自分でも何故かわからないが、このか細き月が出る夜は、心が凍えるほどの寂しさを感じて、私はいつしか毎夜のごとく領主の館で行われる社交場へと向かってしまう。
「……冷たいキスですこと。あなたの心はここにあらずということかしら」
人気の絶えた階段の踊り場で、私はアーチ型の窓の外から見える月をながめていた。
「いえ。そういうわけでは」
私は視線を細い月から静かに引きはがした。
心ここにあらず――か。そう言われれば、そうなのかもしれない。
「今宵は私と過ごして下さる約束のはず。だから、他のひとの事を考えるのはおよしになって」
目の前のふくれっつらの女性が、高く結い上げた栗色の髪を震わせて私をにらみつけている。
「……」
そんな約束をしたような気もするが、私にとってはどうだっていいことなのだ。
私は勝手に言い寄ってくる女性の相手をしているだけ。
この夜の寂しさを紛らわせるために。ただ、それだけだ。
「私の悪い噂はご存知でしょう? あなたはそれを承知で、私を選んだ」
「ええ存じていますわ。一度付き合った女性とは、二度とお会いにならない浮気者の子爵様。だからこそ今宵だけは、その流れる白金の髪も憂いに満ちた群青の瞳も……私だけのもの」
私は反射的に彼女から体を離した。
「どうなさいましたの」
すがるような瞳で彼女が私を見つめる。
「……用事を思い出しました。申し訳ないが、これにて失礼させていただきます」
「えっ! あっ!」
私は外套の裾を押さえ、きびすを返してその場を立ち去った。
女性のかん高い声が背後から追いかけて来るのに怯えつつ、半ば駆けるように社交場を後にした。
まだ夜は半ばを過ぎたあたり。
あの細い月は消え入りそうな光を放ちつつも、私の頭上を煌々と照らしている。
『私だけのもの』
その言葉が私の体の中を、汚水のようにかけめぐった。
理由などわからない。わからないが、その言葉をきいたとき、えも言われぬ不快感に胃がむかついた。この世のすべてが一瞬のうちに死に絶えて腐食していく様を見るような気がして。
領主の館を後にした私は、あてどなく夜の街を歩いていた。
私の屋敷は街を出て、小さな森を越えた郊外にある。だが私はもう何年も屋敷には帰っていない。
帰る必要がないから。
屋敷には誰もいないのだ。私の帰りを待つ者など、誰も。
そんな寂しい所へ、何故帰らねばならない?
街にいれば、日常という退屈から気を紛らわせる手段に事欠かない。
それにしても。今夜はいつもより冷えるようだ。
私は手先を摺り合わせ、そっと外套の袂をかき寄せる。
いや。あの月のせいだ。あの月の光のせいで、そんな風に感じるのだ。
細く細く痩せ細った、けれど闇を切り裂くように輝く、あの銀の月が。
住居代わりに使っている旅籠の一階は酒場になっている。
この街一番の老舗で、元は貴族の館だったものを改築したせいか、高い天井を持つホールや流線形を描く柱の造型、洗練された建築様式が、とても私好みで気に入っている。
こんな冷える夜は人肌が恋しくならないわけでもない。
が、今宵すごすつもりだった女の元から逃げ出したので、私は体を暖めてくれるもう一つの方法――酒にすがることにした。正体がなくなるほど飲めば、あのいまいましい銀の月も地の果てへと沈み、このえも言われぬ寂しさを追い払う、朝日によって目を覚ます事ができるはずだから。
私は酒場へ足を踏み入れた。宵の口のせいか、酒場は多くの男女でひしめきあい、陽気な雰囲気に満ち満ちていた。
一人陰鬱な気分で沈みこんでいる私には、似つかわしくない場所だった。
そこでやはり部屋に戻って飲む事に決めた。
その時。
「……そんなもので、あなたの寂しさは消えはしない」
密やかな声が私を呼び止めた。それに驚き後ろを振り返る。
そこは酒場の奥まった席で、淡い紫のヴェールを目深に被った女性が一人、座っていた。ほっそりとした手には数枚のカードを持ち、私と目が合うとゆっくりとうなずいた。
酒場の軒下を借りて商売をしている辻占い師のようだ。
金や銀のスパンコールがきらきらとちりばめられたヴェールの下から、唯一隠れずに見えている唇が「こちらへ」と言葉を紡ぐ。
女が淡い紫の装束に身を包んでいるので、そのふっくらとした唇だけがとても鮮やかに見えて、私はついふらふらと彼女の席まで近付いていった。
「なにか、ご用ですか」
「……まずはお掛けになったらどうです」
私は女のいいなりになることに少しだけ不快感を覚えながら、正面の椅子へと腰掛けた。途端、まるで私達だけが酒場の喧噪から切り離されたように、その騒がしい音が遠のいていった。
「私にはわかります。あなたが何故……寂しいのか」
赤薔薇の蕾のような唇が動き、占い師の女はそっと被っていたヴェールを頭の上へとはぐった。
磁器のような色素の薄い肌と流水のような輝きを持つ長い銀の髪。伏せた睫の下には月影の光を宿す青い瞳。
まるで人形のように、人間離れした美しさを持つ女だった。
「占い師をさせるには、勿体無いほどの器量だな」
だが女はにこりともせず、真意が見えない深い湖のような瞳で見つめ返した。
「私にはわかります。あなたはどんなに美しい女にも、魅力的な女にも、決して心を動かされた事がないということを」
「……」
私は一瞬息を詰めた。
目の前の占い師は、淡々とした表情のまま、薄い銀の板のようなカードを切って、机の上に一枚二枚と並べていく。
「ああそうだ。今まで多くの女性と付き合ってたが、誰も私の寂しさを紛らわせることができなかった」
誰も。
夜毎囁かれる愛の言葉も、私の心には何も響かない。単なる遊びだった女性もいるが、私に本気で愛を打ち明ける者もいた。
だが、それでも私の心は氷のように冷たく、何も感じなかった。
感じられなかった。
私の心ない言葉に傷つき、泣き崩れた女性をひとり残して部屋を出ることもあった。
彼女に対する憐れみは感じた。だがそれ以上に私の心には虚しさしか残らなかった。いつも、いつもだ。
「何故だ?」
私は思わず占い師に問うた。
「いつからこうなってしまったのだ? 私は……? これでは、まるで私は誰かを愛する事ができないみたいじゃないか!」
すっと、占い師の細い枝のような指が動きを止める。
「そう。あなたは誰も愛する事ができない。だから寂しいのです。でも仕方がありません。あなたは、その心を喪ってしまったのだから」
「えっ……?」
占い師はすっと立ち上がり、相変わらず静かな湖のような、不思議なまなざしで私を見下ろした。
「よかったら、取り戻しに行きませんか。あなたが無くしてしまった『愛の心』を、私と一緒に」
何がどうなっているのかがわからない。
私はあの人間離れした美貌を持つ占い師と共に、彼女の用意した馬車へ乗り込んでいた。
道中私達は無言だった。
けれど馬車に乗っていた時間は思った程長いものではなかった。
十数分といった所だろうか。
「ここは……」
馬車から降りた所は、月の光を受けて鏡のように光る湖畔だった。辺りは鬱蒼とした木々で覆われた森が取り囲み、湖のちょうど中程に、あの細い月が昇る空が見える。
葉の茂みの間から、まっすぐ湖面へ月の光が降り注いでいる。
しんとした静寂の中で、私は再び心の底から凍えるような寒さを感じた。
「何故こんな所へ連れてきた。私は……」
ここは、よく知っている。
この湖は、私の屋敷の近くにあるそれだ。
私は何故かこの場所を避けていたような気がする。
この場所を訪れたくないが為に、屋敷へ戻るのをやめたような気がする。
歯ががたがたと震えた。
唇が青ざめ、手足がとても冷たい。
「私は戻る。どうせ連れ込むならもっと色気のある場所にして欲しかったな」
私はきびすを返し、街へ戻ろうと湖へ背を向ける。だがそれをあの占い師が制した。
しなやかなほっそりとした指が私の頬に添えられる。
月の光に煌めく銀糸の髪が、光の洪水のごとく私から視界を奪っていく。
人形のように作り物めいた、儚い美しさを伴ったその顔は、私のそれと触れあうほど間近にあった。
「そうやって過去に背を向ける方が、あなたにとってよいことなのかもしれない。でも、私には重すぎるのです。あなたの――」
私の唇に彼女の唇が触れる。
「あなたの愛が……リゲイラ」
◇◇◇
『嫌だ。私が愛しているのはあなただけだ。あなただって……』
『許して、リゲイラ。私は領主のもとへ嫁ぎます』
そういってあなたは私の手を振りほどき、森の奥へと駆けていった。
仕方がなかった。
貴族とはいえ下位のそれでしかない私には、領主に見初められたあなたと結ばれるはずがないのだから。
けれど、彼女が領主の花嫁になることはなかった。
彼女は一旦街へ戻ってから、再びあの森の湖へと赴き、そこで身を投げたのだった。
身も痩せ細った月が昇る夜だった。
姿を消した彼女を探して、私はすぐ湖へとかけていった。
あの静かな湖畔の木陰で、私達は一緒にお昼を食べたり談笑したり愛の言葉を囁き合った。思い出深い場所だった。
けれど彼女はもういない。
湖の岸辺で変わり果てた彼女を見つけて以来、私はずっと屋敷に閉じこもりきりになった。
いっそ病気になって死んでしまっても構わなかった。
そんなとき。私は召し使いのうわさ話を小耳に挟んだ。
王国一の人形師マルグリットが、この街に滞在しているという事を。
私はただ……寂しかったのだ。
いつも一緒にいた彼女を突然失って。
私は人を遣ってマルグリットを屋敷へ呼んだ。
「金はいくらかかっても構わない。彼女の人形を作ってくれないだろうか」
マルグリットの作る人形は、完成度の高さから、まるで生きているようだと国中に評されていた。国王すらも、自分の影武者がわりのそれを、マルグリットに作らせたと聞いている。
「リゲイラ様。私の作る人形は、確かに生きているのでございます。それには、報酬の他に、あなたから頂かなくてはならないものがございます」
「彼女が再び私の側にいてくれる為なら、私は何だって代価を支払おう」
その時、マルグリットがその吹き出物だらけの顔を歪め、満足げに笑みをもらしたのを覚えている。
人形師はひと月、私の屋敷の一室にこもって、ひたすら彼女の人形を作り続けた。その作業工程を覗き見る事は厳禁で、食事すらも部屋の扉の外に置かせるという徹底ぶりだった。
かくして。彼女の人形が完成した。
腰の所で切り揃えられた流水のような銀の髪。磁器で作られた抜けるように白い肌。月影を宿した神秘的な瞳には、青い紅玉から作られたそれがはめられ、薄桃色の唇は今にも語りだしそうに少し開かれている。
彼女は私の部屋に置かれた一脚の椅子の上に座っていた。
幾重のドレープが描く淡い紫のふわりとしたドレスをまとって。
素晴らしい。
そこには紛れもなく彼女がいた。
「今度こそ、あなたは私だけのものだ。……私だけの」
私は跪き、人形の――いや、彼女のほっそりとした指を手にとり頬に当てた。磁器で作られたそれは冷たいはずなのに、私は彼女の優しい手の感触を思い出していた。
『許して、リゲイラ』
今ならわかる。
あなたが許しを請うたのは、領主の花嫁となることではなくて、私への愛ゆえに、ひとり暗き黄泉路を歩む事を選んだ事だ。
私はそっと彼女の小さな手を再び膝へと戻した。
彼女は私の顔を無邪気な笑顔を浮かべながら見つめている。この顔を見たいと何度願い続けた事か。
――私だって、あなたを愛しているんだ。
あなたのためなら、この身も心もすべて捧げよう。
「私の心はあなただけのもの」
私は立ち上がり、その月影を映す彼女の瞳を見つめながら、深く深く口付けた。
『私の心はあなただけのもの』
◇◇◇
『リゲイラ様。私の作る人形は、確かに生きているのでございます。それには、報酬の他に、あなたから頂かなくてはならないものがございます』
「私、は……」
私ははっと我に返った。
『そうやって過去に背を向ける方が、あなたにとってよいことなのかもしれない。でも、私には重すぎるのです。あなたの愛が』
私は目の前の美しい銀髪の女の顔を見つめた。
磁器で作られたように色の抜けた白い肌は冷たく、月影を宿した瞳は虚空に浮かぶ、それを受けて青い紅玉の様に光っている。
彼女は急に力が失せたように、その美しい顔を後ろへのけぞらせた。
私の首に回されていた両腕が、するりと解けて落ちていく――。
私は夢中で、崩れ落ちるその体を抱え込んだ。
両腕に抱きしめて共にその場へ膝をつく。
全てを思い出した私の頭上で、あの痩せ細った細い月が、白みだした朝焼けの中で消えようとしていた。
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