潮騒


ふと わたしのなかを
遠ざかる風がある
藍色の空に沈みながら
わたしは幼女になり
虹のように揺らいでいる
(遠くはじけるのは
水晶の花火)
風の行方は一条の吐息
そのなかをひとつの影が通りすぎる
(だれ?)
遥かさに包まれて
波のように打ち寄せるかすれ声


「だめよ、そんなにふざけちゃ」列車の外は雨。母に抱かれ、わたし はおどけながらジュースを飲んでいる。線路は銀色に浮き上がって 、何処までもわたしを追いかけてくる。遠く青緑色の明りが雨にけむ り、その向こうには・・・きっと海がある。


・・・遠ざかる列車の轟音。冷たく青黒い霧が流れ、青緑色の灯りがいくつもけむっている。
 かすかな気配に振り返ると、広い街路を黒い行列が進んでいた。尼僧のように黒い服を来た老婆たちが、表情のない白い顔で、無言のまま歩いている。
 ぼんやり行列を見送るわたしの前を、一人だけ白い服を着た若い女性が通り過ぎていった。それは・・・遠い日に死んだはずの母。
 「おかあさん、わたしよ!何処に行くの?」
 母はゆっくりと振り返る。けむるような美しい微笑み。
 「海に行くのよ。あなたもいらっしゃい。」
 そういい残して、母は行列のなかに消えていった。わたしはわずかに見え隠れする母の姿を追いながら叫んだ。
 「そして、そしてどうなるというの?海に行ったら何があるというの?」
 母の姿を見失い、わたしは青緑色の灯りの下に呆然と佇んだ。すべてが償われるかのような、あの微笑み。海へ行っていったい何が変わると言うのだろう。わたしはもう,ひとつの生を選びとってしまったというのに。
 けれど、その時、わたしは見た。行列のなかを、白い服を着て歩む、もうひとりのわたしの姿を・・・


ふと わたしは目覚め
雨の匂いのする
朝の暗い部屋を見まわす
棚の上の古い写真が
ぼんやりと遠くを見つめている
窓の外は淋しい駅裏の道
汚れた窓に映る白い顔
わたしは時計を見上げる
・・・七時二十八分
会社にはまだ間に合うはず
台所に向かう寒い背中の向こう
列車の轟音が
雨の彼方に遠ざかっていく