幸福


その十字路を右に曲がってすぐの
秋田商店の前
ビール箱に腰掛けて
まだあなたが将棋を指しているような気がします

もう町には街灯が灯り始めて
谷さんのおじさんや
水口さんが
背広姿のまま
秋田さんとあなたのへぼ将棋を眺めている
夏の静かな夜のはじまりでした
それはたぶん
昭和47年のこと

社員皆でのサイクリング
花の丘公園でのジンギスカン
山村課長とあなたにはさまれ
はにかむようにわたしが微笑む
そんな写真が残っています

木洩れ日と
笑い声
小さな沼に回る水車
そのありふれた光景が
なぜくるしいほど
幸福を呼び起こすのかしら?

政治的失敗などない
あるのは生活の失敗だけだよ
60年安保を闘った山村課長の言葉に
沈黙していたあなたの姿
夕日の差す事務所で
そのやりとりを覗き見たとき
胸に走った不安

きみは課長のことも好きなんだろう?
あなたは少し寂しげに呟いた
少しずつ消えていく書棚の本
何も答えられず
何も決められなかった

すべてを決めたのは
昭和49年の冬
不況で会社がつぶれ
あなたも課長も
わたしの前から消えていってしまった
何も答えられず
何も決められないままに

花の丘公園にも
暖かい光が差す季節になりました
風の便りで
課長が亡くなったことを
この冬知りました
あなたはどうしていますか
どんなふうにこの30年を生きてきたのでしょうか

まだ雪の残る散策路に
あの夏の日がよみがえります
ジンギスカンを突付きながら
屈託なく笑うあなたの横顔
黙々と飲む課長の赤く染まった頬
そして
忘れていたことを
思い出しました

政治的失敗などない
あるのは生活の失敗だけだよ、
あの言葉の少し後に
付け加えられた課長の言葉を

それは別の決定論ではない
そこからはじまるのが
きみの「生」だ

あなたは、
覚えていますか?