1 現代詩の内向化(2002/10/22〜)


 現代詩が魅力を持ちえたのは1960年代の政治的・思想的なラディカリズムと結びついていた(或いはそのように見えた)からではないだろうか。中央集権的な「現代詩手帖」も「現代詩文庫」もその時期に成立している。実際に左翼であるかないかに関わらず、政治との緊張関係が、多くの人(特に若者)を現代詩に引き寄せた。言葉を変容させることが世界を変容させうるかのような幻想。当時左翼的詩人に芸術至上主義と揶揄された入沢康夫のようなひとですら、「安保」を意識したナイーブな詩を書いていた。

 現実的であろうと空想的であろうと当時の人達を支えていたのは「高度経済成長」によってもたらされた高揚感だった。政治的挫折に見えたものは、実は経済的挫折である。

 わたしが現代詩を知り読み始めたのは1979年だった。当時のスターは荒川洋司と平出隆で、女性の書く詩が注目されていたころでもありその代表格が伊藤比呂美だった。新しい世代として宮園真木などのソフトな表現の詩人が出てきていて、「現代詩手帖」のある対談で彼らのことを飯島耕一が「ソフトクリーム派」と揶揄したことから物議をかもしていた。当時「お互いにコメントしない関係から本音の関係へ」などという論評もあったけれど、あのやり取りは明らかに狭い内部の世界での差異にこだわる内向化のはじまりだった。

 実は外部がトータルな現実から「市場」に変わったのだ。しかも閉ざされた「市場」に。それは現代詩だけではなく文学全体においてそうなったと思う。