オウムに関わる一連の事件の頂点はもちろん地下鉄サリン事件だが、あの俗悪そのものの教祖があれほど多くの若者たちを吸引したことにいつも思いがいく。
怪しげな教義の魅力よりも、浅原が直属の部下たちを巧妙な競合関係に置いていたからではないのか。世間一般で言う「カリスマ」とか「伝説」とかも、その視点から見なければならないだろう。そしてたぶん「文学」も同じような構図のなかにあると思う。
「競合関係」を浅原が意図的に操作したのは確かだが、すべてをそこに還元できない気がする。多くの人間のコントロールが可能になるには、主体自体が「競合関係」の結果として現れるような転倒が必要だ。ヒトラーや浅原が決して反省しないのはそのためだろう。
文学者の権力など高が知れているし、たいした実害はない。威張っているひとやあざといひとをを浅原と比較しても仕方がない(賞レースが過熱するとそんな中傷が飛び交うこともあるかもしれないが)。それよりも、皆が信じたがる文学的価値の超越性やヒエラルキーが宗教や神秘主義と共通のレトリックで語られていること、或いはそのようなレトリックを強化していることが問題のような気がする。それは個人の意識やある種のコミュニティにとどまらない「競合関係」に於いて現れる。
超越的な立場にいると思いたがる文学者が平気で俗悪なことをしてしまうのもそのためだ。そんなところでオウムを批判しても仕方ない。自らの根拠(場所)を問うことを或るレベルで禁止すると宗教や神秘主義と何らかわりなくなるだろう。趣味のレベルの葛藤やねじれに収まるならともかく、それは現実の関係に必ず反映してくる。