わたしが断続的であれ「現代詩手帖」を読んでいた1980年代の終わりごろ、たぶん影響力を持つ同人誌としては最後の存在になった「麒麟」のメンバーが主導権を握っていた。そして伊藤比呂美や井坂洋子などの流れを汲む女性詩が一ジャンルとして確立していた時期でもあった。
わたしが驚くのはその時に隆盛を極めた表現スタイルが未だにネット上でもラディカルなものとして流通していることである。ポスト・モダンの本来の意味どおり「歴史」は終わっているらしい。しかし当時でも批判されていたように、それはバブルによる経済の拡大と情報社会の加速化によって「政治」が消去された(或いはそれへの免罪符を手に入れた)ことによる「空虚の美学」の開放に過ぎないのではないか?
行間を多用し、マラルメ的(マラルメから歴史性を消去したもの)言語の散乱を極点にして、本当は凡庸な叙情や言葉遊びが肯定されているような詩の多いことに驚かされる。そして現実には差異を消去する志向の影で「才能」とか「センス」が競合しているだけなのである。愕然とするほど「私」が露出している世界なのだ。これは皮肉なぐらい現在のネットコミュニケーションと似ている。もしこの仮定が正しいならネット上で同じような属性を持つ「現代詩」が差異を担って隆盛することはありえないと思う。