風は最初の意志だと わたしは思い続けた。意志はいつでも はじめの姿にかかわるのだと。もののながれにかかわらぬこと。わたしはたぶん 意志したときにわたしであり そののちはげしくみすてられた。わたしはそのとき 風になるわたしが風になるすがたを見ていたのだが あるいは水が 凍ろうとする姿を 見ていたのかもしれぬ。その いずれの側に 意志といえるものがあったのか。風とわたしと あるいは水と 氷と。すがたを望むことと 姿を去ることの いずれに意志は属したのか。そのときにもおそらく 虹はたつべきであった。だがそれは立たなかった。
(「石原吉郎詩集」思潮社)
姿のない、通り過ぎて掴めない風がなぜ「最初の意志」なのか。或いは水が。
ここには、限りなく透明であることを望み、つまり不透明であることを強いられている
語り手のくるしい「夢のかたち」があるような気がする。
>すがたを望むことと 姿を去ることの いずれに意志は属したのか。
透明でかつ姿を持つことの不可能性。ここには「生」への希求が同時に「死」への希求でもあるような実存が見える。
>そのときにもおそらく 虹はたつべきであった。だがそれは立たなかった。
「虹」とはそのような背理、矛盾の救済のイメージなのか?
>だがそれは立たなかった。
これは絶望なのだろうか。わたしはここに、姿をもつことともたないことの境界に佇み続ける語り手の「意志」を感じる。