淋しいブイは
小さな波を打ちあげて
不幸な兵士に別れを告げる
いかなる悪魔も
あのブイをとりさることはできない
ぼくの苦しみも
ぼくの悲しみも
永くとどまることはないだろう
記憶の中の港には
いつまでもブイが浮かんでいるけれど
この不幸な兵士は
悪魔の手におちるかもしれない
いつか何処かで
死のうと思う前に
もう二度とめぐりあうこともない
淋しいブイよ
(「鮎川信夫全詩集」思潮社)
「ブイ」も、「不幸な兵士」も、「悪魔」も、思想的あるいは体験的負荷を持つイメージなのに、この詩に於いては不思議な透明性を持っている。
たぶん「ぼく」の像と「不幸な兵士」像に与えられているずれが詩に独特の陰影を与えているからだろう。このずれこそ「悪魔」のあらわれる場であり、「ブイ」が浮かぶ場なのだ。
戦場で様ざまな価値を相対化された兵士にとって、「ブイ」は自分の存在をつなぎとめる意味を持った像として体験されたのかもしれない。
しかし、この体験自体も相対化を免れ得ない。自己と体験は決して一致し得ないという意識、これが「悪魔」となってうつろいやすい感情世界をおびやかすと同時に、「ブイ」を、ますます無償な生の像として鮮やかに浮かばせる。
かつて「死」を自分の存在に結びつけずにはありえなかった兵士のように、もしも「死」という契機が現前する時がきたら、再び「ブイ」とめぐりあえるかもしれない。
だがそれは可能性(不可能性)としてしか表象されえない。話者の生の根拠にはなり得ない。鮎川信夫の詩のもつ基底音はおそらくそこから生まれている。