1 カイエ(悲しい光景)(2005/8/20)


 通常の人間関係や生活からはじき出されるような問題を抱えている(強いられている)人たちが、たとえネットという抽象的な関係であれお互いの苦悩を認め合い慰めあうということは批判の対象にはならないと思う。そこに本当の相互理解があるかどうかはそれぞれが生きることで明かしえる実存的な問題であり、更に問題の性質上世界(世間)での「認知」が重要なベクトルであることも理解できる。

 しかし「認知」が最優先の問題になるのは実は転倒である。それは逆に自分たちを差別し排除して生きる場所を奪ったり限定するような世界(世間)に実は言質を与えているのではないのだろうか。というか同じことを反復しているのではないのだろうか。

 相互に本当に信頼があるかはともかくとして或るグループや共同体(家族ももちろん含む)が結束するのは「外敵」の存在が一番大きい。それが現実的な脅威であるならまだいい。もしもそれが単に或るグループの好き嫌いや利害が作り出した「表象」であるとしたら、実は自分たちが「認知」を求める世界(世間)とまったく同じ場所に立つことになる。

 寡黙であることを強いられ実は一番過酷な運命にさらされている個人がその光景のなかでは犠牲になってしまう。それほど悲しい光景はない。その個人のためにどう闘うことができるのか。いや、共に生きることができるのか。それは「認知」の問題や「自己規定」からは実は出てこない(出てくることができない)問いであり実践ではないだろうか。