1 カイエ(想像のコミュニケーション)(2005/3/27)


 ある種のコミュニケーションが維持されればいいというのは、そうではないものを排除するということでしかない。詩や詩人についての能書き(一流であろうと三流であろうと)が現実の関係のなかでどんな意味を持っているのか、それが現前していても見えない、というか見えないふりをする。それは個人の妄想なら何ら問題ないけれど、実際はそうではないから「権力がないふりをする権力」になる(権力とはそういうものだが)

 それは個人的「病気」ということでフォローできないと思う。それ自体が「病気」を再生産しているのだから。趣味的なオタクを恥じる必要などない。尊敬すべきひとも多い。しかし個人的事情まで駆使して循環論を行使する「関係オタク」は有害だ。そこに他者という契機は訪れない。というかそれを排除するために反復される症候なのだから。残るのは個々の成員にとっても意義があるのか疑わしい「想像の共同体」をめぐる葛藤の物語の履歴だけだ。