3 「豊かさ」(2004/12/12)



 以前、福祉活動をしている人たちの手記を載せた小冊子をぱらぱらとめくっていたとき、高校生の女の子の書いた言葉が目にとまった。

 「わたしは福祉活動をすることで様々な人と出会い、他の人たちより人間として豊かになったと思います」

 確かこんな内容だった。わたしは胸のむずがゆくなるような妙に不安定な気分になった。この言葉のなかの「豊かさ」は決して実体的なものではなく、実は二つの対象を貧しくすることで成り立っている。

 わたしは身障者や精神障害者(と称される)ひとたちと若干の交友関係を持ったが、彼らは決してこのような「豊かさ」を表立って言うことの難しい立場に置かれている。この女の子の善意はそれを理解しないどころか、彼らに貧しさを強いることでふくれあがっていくのである。

 そしてもうひとつの対象は、福祉活動など「有意味」とされる行為に無縁のその他大勢の同年代のひとたちだ。先の文は直接には彼らのことを指しているのだろう。この女の子は自分の「夢」を彼らに強い、それを与えないことで自己を差異化している。バブル期以来、Jポップの歌手や仕掛け人が歌詞で「夢」や「希望」を連発するようになったが、実際にはマーケットで利益を得たり名を売る程度のことしかしていない。それと同型のような気がするのである。

 しかしわたしはこの少女を直接関係できない場所で個人攻撃したいとは思わない。彼女の笑顔や行為に喜びをを示すひとも多くいるであろうし、たとえそうでなくても言説の上であのように述べることは止むを得ないことなのかもしれない。或る意味素直だと言ってもいい。

 この「福祉活動」を「詩」に置き換えてみることもできる。実際にそう広言しなくても皆暗に「豊か」だと思っているに違いない。しかし現実の「福祉活動」とは決定的な差異がある。コミュニテイに存在するのは詩で自己差異化しようとする同型の他者ばかりで、どうにもならない他者はいないということだ。他者はいつも自他を脅迫する外部の現実というかたちで導入される。しかしそれはコミュニティの価値を前提にした世界のなかでのことにすぎない。

 今ある、この生の条件のなかではじまり、続けられる詩というものがある。それは永遠どころかごく短い期間しか意味を持たないかもしれない。少なくとも今のわたしはそれを信じている。具体的には自作の推敲による作品世界の可能性の探索と、他者の個々の作品への分析である。