2 日本沈没(2004/10/25)


 1974年(昭和49年)は石油ショックで戦後初のマイナス成長だった年だが、当時映画とテレビで「日本沈没」(小松左京原作)がヒットしていて、子供ごごろにタイムリーだと思っていた。映画は石油ショック以前に作られていたのだが。

 その年小学校6年生だったわたしは、友人のTと「日本沈没」のテレビを見て熱狂(?)していた。どちらかというとTに影響されたと思う。

 彼は小学校の近くに住んでいて、家はトタン屋根に石が乗っているような当時でも珍しいボロ家だった。「貧乏子沢山」を絵に描いたような家庭で、彼は7人兄弟の末っ子だった。もともと貧しかったわけではなく、父の仕事の失敗が原因だったらしいが、詳しいことは今もわからない。
 彼はいつも下校時に逃げるように家に入っていった。通学コースに当たっていたので、小学校の生徒たちに見られるのを嫌がっていたのだ。

 私の家は前年の11月に新築1年半で全焼していた。74年の6月には再建されたのだが、冬の間納屋を改造した仮住まいにいて、寂しい思いをした。だから彼と気持ちを共有するような状況にいたのである。

 「日本沈没」は、わたしにとっては家と黄金の少年期を同時に失った状況とシンクロしていたが、どちらかといえば「恐怖」の感情が強かった。しかしTには明らかに日本沈没を望む志向があったと思う。「ここがまず沈む、次はここだ」とにわか研究者になった彼の言葉には恐怖よりも待ち望むトーンが強かった。
 皆が不幸になるようなクライシスによって、彼のみじめな現実は覆い隠される。子供ながらわたしはそれを敏感に感じていた。
 その頃家は再建されたとはいえ、非常な挫折感を抱いていた母に「日本沈没」について話すと、母は「皆が不幸になるならいい」とぽつりと呟いた。その暗い顔にわたしは同時にTの姿を見ていた。

 ・・・当時見た夢があり、今でも鮮明に覚えている。
 日本の沈没が近づき、わたしの住む町の人たちは全員避難することになった。港に向かう人で駅はごったがえしていた。わたしは飼っていた犬が置き去りになっていることを思いだし、家族の制止をふりきって走り出した。
 明るい午前の光に包まれた農村地帯はもう人の気配がなく、鳥の声だけが響いていた。わたしは家に戻り犬を鎖からはずすと、駅に向かって走りだした。しかし遠くに走り始めた列車の姿が見える。焦燥と絶望を感じながらも、わたしはこの誰もいない町に残ることに何かあこがれに近い感情を同時に抱いていた。