詩等のいわゆる芸術表現に限らず、メタフォアをメタフォアで語ることは必ず自家中毒に陥ると思う。人間関係について語っても同じなのだ。 そこには他者というモメントは永遠に排除される。求めるポーズだけは無限のヴァリエーションを持つのかもしれないが。何も起こらずすべてが終わっているかこれからはじまる世界では他者という偶然性(であり必然性)は求められながら排除されるのだ。