4 おっさん、女々しいよ(2003/10/8)


 キルケゴールなんて名を持ち出すと、「倫理社会」の教科書でしか知らない人も多いだろうし、教科書を読んだこともない人にはまったく未知の名だろう。多少知っていてもデンマークの「実存主義の開祖」と称される何だか深刻そうな哲学者のイメージしかないと思う。わたしもそうだったから(笑)ほとんど解説書か他人の著作での言及や引用でしか知らなかった。

 なぜその時キルケゴールを読もうなんて思ったのか。

 1990年の夏だった。普通に付き合うにはそもそも困難が伴う女性と恋愛関係になったが、困難云々よりも連絡手段を失い、半ば諦めながらも悶々とした日々を送っていた。相手の現在の気持ちを知ることが難しく、それ以上に恐れてもいた。「つかの間の恋でいい」とか「相手は遊ばれたと思っているかもしれない」とか、交流がないものだから意識は堂々巡りするしかなかった。

 そんな時、何かの著作で「恋に悩んでいるときは、恋愛にまるで関係ない堅い著作を読むと精神が安定するし、けっこう理解できるものだ」という言葉を読み、実践することにした。例に挙げられていたマルクスの「資本論」でも読めばいいのに、わたしはなぜかキルケゴールの「哲学的断片」を選んでしまった。

 「人間の教師」ソクラテスと「絶対的矛盾」としてのイエスを対比した論文だったが、やたら「愛」の文字が出てくる(笑)いわゆる「恋愛」とは次元が違うにせよ、読むうちにこれはメッセージではないかと思いはじめた。具体的な女性への。

 あらためて年譜を読み返すと、漠然としか知らなかった「レギーネ・オルセンとの婚約破棄事件」の詳細や、全著作を別の男性と結婚した彼女へ奉げようとしていたことなどが出てきて腑に落ちた。それは、「女々しいぞ」という思いと切ない共感を同時に感じさせた。


 「不幸とは、愛し合うもの同士が添い遂げられないところにあるのではない。むしろ互いの心が通じ合えないことこそ不幸なのだ。そしてこの悲哀こそ、俗にいうあの不幸に比べれば、限りなく深いものなのだ。というのは、この不幸はいわば愛の心臓を突いて、これを永久に傷つけてしまうからだ。それから見ると、あの不幸などは、時がたてばやがてなおってしまうただの外傷でしかない。そして高潔の士にとっては、愛し合うもの同士がこの過ぎ行く世で添い遂げられないことなど、まるで茶番にすぎないのだ。」(「哲学的断片」)


 キルケゴールが高名な哲学者として認知されるのはあくまで後世の話で、彼は「変わり者」もっと言えば「アホ」だと同時代のかなりのひとに思われていたらしい。そんな男に結婚してからも求愛され続けるレギーネはどう思っていたのか。気色の悪いストーカーと思われていたとしてもなんら不思議ではないのだ(実際に彼女がどう思っていたかは寡聞にしてわからないが)。

 「おっさん、女々しいよ」と突っ込みを入れながら読んでいたが、それはだんだん共感(彼のようになりたいというのではないが)に変わっていった。彼の「信仰」はまさしく飛躍であり、それは彼が現実の一人の女性の前でドタバタすることと切り離しえなく結びついていたのだ。

 別に何も解決したわけではないが、わたしの悶々とした葛藤は不思議に和らいでいた。「ドタバタすることができる時はドタバタしよう、結局は時間の経過のなかで諦めることしかできないにせよ」誤解しないでほしいが、これはストーカー宣言(笑)ではない。今、現に接することの可能な他者との関係のなかで、おそらくは成功しないこの「恋」を味わい尽くそうという決意だった