3 位置の悲しみ(2003/9/11)


 わたしは二歳下の妹と二人兄妹でいわゆる「長男」だ。本家の「長男」でもあり、叔父や叔母にも可愛がられていたと思う。経済的には恵まれていなかったかもしれないが、自分に対する愛情が少なかったと思ったことはない。

 叔母の一人は三人の娘を産んだ。その三人の従妹たちを幼い頃からよく遊んであげたが、真ん中の子が親の愛情にあまり恵まれていないと思っていた。同じ悪さをしても真ん中の子ばかりがきつく叱られている。それはまだ小学生だったわたし固有の認識ではなく、わたしの両親や他の親族にも共通した意見だった。「ちょっとあの子にばかり厳しくないか?」と叔母たちが意見されている光景を見た記憶がある。それはわたしがその子を自転車の後部に乗せていて、足の指が後輪のスポークに当たって怪我をさせてしまったことが発端だった。青ざめて謝るわたしを叔母夫婦は責めず、「おまえが不注意だからだ」とその子ばかりを責めた。怪我をさせたこと以上にわたしにはそれがつらかった。あまりにも理不尽に見えた。

 位置の悲しみ。それは或る固有の時期の問題かもしれない。後年その子は親と一番仲がよいぐらいになったからだ。しかしこれはやはり幸福なケースでそのまま歪んでしまうことのほうが多いのかもしれない。怪我の痛みと叱責で泣き続けるその子の姿がほんとうにひとりぼっちに見えたことを今でもありありと思いだす。

 後年彼女は運命の皮肉というのか三人の男の子の母親になった。しかも真ん中の男の子は言葉や発育が遅かった。わたしのなかには不安が生まれた。

 「おとうさん(従妹の主人)は可愛がってくれるかい?」
 「おとうさんが大好きなの。」
 わたしはほっとした。しかし彼女の言葉はそこで終わらなかった。
 「でもおとうさんはあまり相手にしてくれないんだ。」
 やはりそうなのかと思い、無邪気に走り回るその男の子を見つめた。
 「おれが言うようなことじゃないかもしれないけど、あの子の気持ちはおまえが一番わかるはずだから大事にしてあげてほしいな。」
 「うん、わかってるよ。」

 事は単純ではなく、逆差別にもつながるかもしれない。それでも、その男の子がひとりぼっちで泣いている姿は見たくないと切実に思った。