2 花火の夜 (2003/8/3)



 1979年の8月4日、恒例の市の花火大会があった。

 わたしが高校生になってからは家族で花火見物という習慣は途絶えていた。見たければやや高台にあるわたしの家から充分楽しむことが出来る。その時わたしは高校二年生だった。バレー部で大会予選を控え、坊主頭で毎日練習に行っていた(実際は女子バレー部のレギュラーと女子のネットでミニゲームばかりやっていたのだからとても熱意ある練習とは言えなかったが・・・)。

 何故かその夜わたしは思い立って自転車で花火見物に出かけた。まだ砂利道だった農道をわざわざ選んで走った。水田の向こうの街明りの上に巨大な花火の輪がいくつも広がった。その光景も通り過ぎた工事現場の赤いカンテラも、妙に鮮やかで胸は不思議な感覚にざわめいた。わたしが幼い頃か、或いは生まれる前に誰かがこうして自転車で走っていたような気がした。

 住宅地に入った。小学校の前の暗い舗道に老人とその孫らしい子供が座って花火を見上げていた。わたしの既視感はますます高まり、閑散とした街を走り続けた。

 市街地に入ると花火は終わり、観客たちが石狩川の河川敷のほうからぞろぞろ戻ってくるのが見えた。わたしは反転して、駅前の小さな書店に向かった。そこには田舎の書店には珍しく現代詩の詩集がいくつか棚に並んでいて、詩に興味を持ち出していたわたしは、そこで思潮社の「現代詩文庫」の谷川俊太郎や入沢康夫の選集を買って読んでいた。戦争の影を濃密に漂わせる荒地派の詩人のものもあったがなんとなく敬遠していた。

 しかしその夜のわたしは、時間の繚乱する感覚のなかにいて、いつもは手にとらない鮎川信夫の選集を手にとった。ぱらぱらめくり暗いトーンの彼の詩を読むと、わたしの胸のざわめきは苦しいほどまでに高まった。特に、この「落葉」という作品に。

        落葉

      わたしの大きな瞳には
      まだ悲しいひとつの顔が浮かんだり消えたりしているのに
      暗い空の枯れた林から落葉がすきまなく降ってきます
      街のともし灯も
      明るいひとびとの笑顔も
      みんな灰色の壁に塗りこめられてしまって
      わたしのからだのなかに黄昏がいっぱいつまって
      黄色い髪飾りだけがふわふわと蝶のようにさまよっているのです
      わたしはわたしの行方を知っていない
        (後略)

 戦後の荒廃した街で、失われた時間と死んだ姉の幻像のなかをさまよう若い女性・・・。わたしのその夜の感覚との不思議なまでの符号に呆然として、その選集を買い求めた。わたしは暗い道を帰りながらもうまわりの景色など見ていなかった。言葉が胸のざわめきの底からいくつも立ち上って来ていた。