上杉神社
-uesugijinnja-
(山形県米沢市丸ノ内1-4-13)
■案内
米沢にくる観光客は、必ず訪れるところ。それがここ上杉神社である。昔の米沢城跡であり、その面影も色濃く残す。
場所は、米沢に入ってしまえば、上杉神社への案内板がいくつもあるので、迷う人はそういないだろう。
城史苑という大きなお土産屋さんの前が正面であり、入っていくと、右手に松岬神社がある。
松岬神社には、上杉景勝・直江兼続・上杉鷹山・細井平洲・竹俣当綱(まさつな)・莅戸善政(のぞきよしまさ)がぎゅうづめに・・・いや合祀されている。ちなみに細井平洲は米沢中興の祖といわれる上杉鷹山の師、竹俣当綱・莅戸善政は鷹山の下で藩政改革に活躍した人である。
家臣と藩主を一緒に祀ってしまう辺り、米沢人の懐の深さを物語る(笑)。もっとも景勝・兼続の場合、米沢市民にとっては兼続の方が断然人気があり、景勝はイマイチなのであるが。
ちなみに米沢では、郷土色が濃いらしく、謙信と鷹山の肖像画が、今でも小学校の体育館に飾られているそうである。一度見に行ってみたいのだが、いろいろ事件も多くて不審人物扱いされるだろうと思い、自粛中(笑) でも謙信って米沢とは直接関係ないような気が・・・どちらかといえば景勝が飾られているべきでは・・・(^^; それはともかく、甲府市内の小学校には、信玄公の肖像画が飾られているか、非常に気になるところである。謙ちゃんに負けてはいけないと思うのは私だけ!?
とにかく松岬神社の前を行くと、いよいよ本丸である。堀があり、橋にはおなじみ「毘」と「龍」の旗が掲げられている。春には桜が咲き誇り、とても綺麗。
冬は堀が凍り、あちこちに雪が山となっていて、この落差の激しさもまた米沢ならではである。だが、冬は女子高生もゴム長靴で歩き、雪の重みで車がつぶれるという大変な季節。なぜゴム長靴かというと、道路の雪を融かすのに水が流れ、歩道やらなにやら雪と水でぐちゃぐちゃだからι最近は温暖化で少しはましとはいえ、昔を思うと恐ろしい(>_<)。冬にいくと米沢の真の姿を見た気がしてなんだか嬉しくなるのだが、装備には要注意である。
堀を渡って、参道に入ると、すぐ右手に謙信公像がある。刀を持って床机にどっしと腰掛けている。この謙ちゃん、頭は頭巾でとがってるけど、かなりのしもぶくれ。しかも、眉間にしわを寄せてとっても不機嫌そうである。はっきりいってあんまりかっこよくない(おい)。
先の参道の左手には階段があり、登ると、祠堂跡にでる。ちょうど登った正面にある木のそばがそうで、上杉氏の時代はここに謙ちゃんの遺骸が祀られていた。なんでも棺の右には善光寺如来尊像、左には泥足毘沙門天を置き、守りのために番を立て、二の丸南側には21ヶ所の真言宗寺院をおき御堂衆と能化衆という寺僧により仏事が営まれたそうである。藩財政も逼迫するはずだ・・・。現在謙ちゃんの遺骸は上杉家廟所にある。この謙ちゃんの遺骸、甲冑を着けて漆づけになり、大きな甕に納められているそうである。政宗の遺骨みたいに調査してくれないかな(ぼそ)。
参道に戻る。ぼーっとしてると気がつかないかもしれないが、米沢城の案内板の手前に、棒杭がある。これが「伊達政宗生誕の地」標柱。哀しいことに、祭りの日などは、露店に隠れてさっぱりわからなくなってしまう。
その先には米沢藩中興の祖、上杉鷹山公の像。某北海道の銅像の真似をしているのか、指先を高く空へ向けてきりりとして立っている。「成せばなる」の信念の人だから、そんなポーズもお似合いである。
この辺りの参道には、上杉祭りのときに、上杉28将ののぼり旗が立ち並ぶ。その絵柄はどこか恵○寺のものと似ていておかしい。
奥にはお待ちかね上杉神社。質実剛健の気風を備え、装飾は少ないながらも堂々とした構えである。祭神は謙信公。歴代上杉氏の頂点に君臨するとってもエライ戦バカである。建物自体は、大正年間に建築界の重鎮伊東忠太によって立てられたらしい(知らないけど)。
そのとなりに宝物館である稽照殿(けいしょうでん)。ここには歴代上杉氏の貴重な品々が並ぶ。特に、刀剣・鎧の類はかなり充実。博物館もあるのだが、こちらの目玉は謙ちゃんが信長からもらった洛中洛外図屏風(国宝)くらいしかなく、これも複製のときが多いので、博物館に時間を割くよりは稽照殿と米沢駅近くの宮坂考古館を見たほうがずっと有意義である。とはいっても博物館も只今新築中。とある方の話によれば博物館は広くても展示品がない(稽照殿の宝物は移らないらしい)ので、今血眼になって探しているそうである。収蔵物にあわせて博物館を作ろうとは思わなかったのね(^^;
稽照殿で見逃してならないものといえば、なんといっても直江兼続の「愛」の前立!見逃そうと思ってもできない、現在でもインパクト大の鎧である。
これ以外にもいろいろある。少し挙げると謙信所用の色々威腹巻、景勝所用の紫糸威伊予札五枚胴具足、秀吉から拝領した槍先、お屋形さまの悪口を並べた祈願文、景勝への直筆手習書など。謙ちゃんの字は細くて神経質っぽく、寺で修行した割にはあまり上手でない。お屋形様の方がず〜っと上手(偏見!?)。謙ちゃんは、戦場の箱庭で遊んでいたともいうし、本当に真面目に修行していたのか疑うところである(笑)
また、写真集などにはよく出てくる謙ちゃん所用の春日杯も謙ちゃんを偲ぶにもってこいのものである。戦場でこれを使って酒を飲んだというが、一合は入りそうな大きさ。しかも水色にピンクの花柄模様!酒豪謙ちゃんの趣味が窺える逸品。
あと面白いのは謙ちゃん所用という鎧の下着。鎖帷子が縫い合わせてある実践的なものだが、いかにも男手という感じで、夜なべしてこれを縫い付けている謙ちゃんを想像すると思わず笑ってしまう(謙ちゃん自身が縫ったわけでもないだろうけど;)。
とにかく稽照殿はおすすめ。宮坂考古館も景勝・兼続・上杉憲政・前田慶次などの鎧が揃っており、ぜひ一度行くことをオススメしたい。
■歴史
米沢城の築城は、歴仁2年(1238)。築城者は鎌倉幕府の実力者である大江広元の次男、長井時広といわれる。
康暦2年(天授6年 1380)、伊達宗遠が置賜地方を攻略してから米沢はその支配下に入り、宗遠の後、9代政宗から氏宗、持宗、成宗、13代尚宗までの代までは、伊達・信夫地方(福島県)に本拠を置き、置賜地方には一族を配しての支配が続く。
尚宗の子、14代稙宗の代になると西山城(福島県伊達町)を本拠にしながらも、主勢力を置賜地方に移しはじめる。
群雄割拠の時代が幕を開ける中、伊達氏は次第に力を蓄え始めた。ところが、嫡子晴宗との間で、天文の大乱が起きる(天文11年(1542)〜17年)。事の起こりは、稙宗が息子実元(晴宗の弟)を越後守護上杉定実に養子に出そうとしたことに、晴宗が反対したことによる。この6年に及ぶ戦いで伊達氏は大きく傷ついたものの、名門である上杉氏の家紋「竹に雀」はもらったまま返さず、ちゃっかり伊達家の紋にしてしまう。
乱を勝ち抜いた15代晴宗は、天文17年(1548)、本拠を米沢に移す。西山城下からも商人・職人が移り、米沢の城下町も一応の形成をみる。しかし、この頃は、まだ兵農未分離の段階で、家臣の城下町集住体制は不徹底であった。天文22年(1553)、晴宗はこれまでの判物を全て反故にして、知行再宛行(あてがい)を実施する。これは、天文の大乱で諸士を味方にするため、稙宗、晴宗ともに多くの知行宛行状、知行安堵状を発行していたので、その混乱を収拾するためである。
伊達藤次郎政宗は、永禄10年(1567)8月3日、米沢城で誕生した。父は16代当主輝宗、母は最上義光(よしあき)の妹義姫。この嫡子誕生にあたっては一つの伝説がある。
義姫が、男児の誕生を願って、亀岡文殊堂(山形県高畠町)の修験者長海法印に祈願を依頼し、これを受けた長海法印が出羽三山の湯殿山に祈願し、湯殿山の湯に浸した御幣を持ち帰り、義姫の寝所の屋根に安置した。すると夢枕に老僧が現れ宿を胎内に借りたいと告げたという。義姫は「夫の許可がないといけませぬ」と答え(すぐOKしないのところがサスガ)、翌日輝宗に相談したところ、輝宗は「瑞夢吉祥ぞ」と喜んだ。翌晩も老僧が現れたので、許されたことを告げると、老僧は胎内に宿り、誕生したのが政宗という。輝宗は、御幣(梵天)にちなんで、幼名を梵天丸と名づけた。
成長した政宗は、22歳までの青春時代をこの城で過ごす。その後、黒川城(福島県会津若松市)、岩出山城(宮城県岩出山町)、仙台城(宮城県仙台市)、若林館(宮城県仙台市)と次々と居城を代えていく。
政宗の次に、米沢城に入ったのは、蒲生氏である。天正18年(1590)、蒲生氏郷が会津黒川へ42万石(後92万石)で入封し、米沢城には氏郷の部将蒲生郷安が3万5000石で入城した。しかし、氏郷死後の慶長3年(1598)、蒲生氏は宇都宮18万石に減転封となる。
代わりに越後から上杉景勝が会津120万石に入封する。米沢城には景勝の股肱の臣直江兼続が30万石で入城し、名を舞鶴城と改めた。
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで、上杉氏は西軍に与し、家康側についた最上氏や伊達氏と戦う。戦後、上杉氏は米沢30万石に減封となる。景勝の移転にともなって、米沢城の改築・拡張が行われ、二の丸、外堀などが造営された。しかし、幕府への気兼ねと、財政難から天守閣は築かれず、建物も安普請だったらしい。
町割も行われ、大身の武士は三の丸内、小身の武士は郭外に配置され、下級家臣は郊外で屯田兵のような生活(原方屋敷)をし、これが米沢藩の特色となった。また、寺町を城下の最北と、最東端に配し、軍事的な防御線の役割を担わせた。
その後、米沢藩は15万石となり、財政は逼迫を極める。9代藩主治憲(はるのり、鷹山)のとき、藩政改革に成功するが、時代はゆっくりと幕藩体制を揺るがし始める。12代斉憲は、文久3年(1863)に京都守護職につき、奥羽越列藩同盟を組織して、新政府軍に対抗したが、敗北し、色部長門守久長が戦死した。そして13代茂憲のとき、版籍を奉還、米沢城は廃城となった。
現在、米沢城址には上杉神社が建てられ、周辺は松ヶ崎公園となる。二の丸址は現在上杉記念館となり、本丸の堀と土手が残る。
■交通
JR奥羽本線米沢駅下車。白布温泉行きバス10分、上杉神社前下車徒歩5分
または、小野川温泉行きバス10分、松ヶ岬下車徒歩5分(どちらも一時間に一本くらい)
米沢駅から徒歩30分(3キロ)
レンタサイクルあります。駐車場あり。
稽照殿:開館時間 午前9時〜午後4時 無休 (冬期間12〜3月は要予約) 400円