姫路城
-himezizyou-
(兵庫県姫路市本町68)

連立式天守♪かっこいい〜〜♪

■案内

姫路駅をでて、目の前の大きな通りをいけば、姫路城。今では日本一のお城である。

なんといっても城郭の殆どが壊されずに残っているのがすごい!今のお城は復元されたり、残ってたりしていても、本丸とその周辺くらいで、なんとなく小さいイメージがあるが、ここは違う。でか〜〜〜〜い!!!

普段は土塁と堀だけの山城ばっかり歩いて、一般人がイメージするお城のことをすっかり忘れているが、普通のお城もいいな〜と思うものがある。52万石の池田輝政の城でこれだから、60万石の青葉城や、100万石の金沢城とかいかばかりだったのか・・・。

城内はわけがわからなくなるほど複雑な構造。近世城郭のように整っているわけではなく雑然とした並びであるが、これが功を奏したのか、さまざまに重なりあった建物や曲輪は、不思議な緊張感と美しさを醸し出す。

瓦の家紋、石垣、床などなど、見所も満載。暴れん坊将軍なんかの時代劇でよく見る場所などもあり、見てて飽きることがない。

普通のお城の中では、最高である。お城好きは一生に一度は行かねばなるまい。

ちょうど桜の季節だったのできれいでした♪

■歴史

姫路城の築城は慶長14年(1609)、池田輝政の築城による。別名白鷺城。

もともと、元弘3年(1333)に播磨守護赤松則村が砦を築いたのを始まりとする。後、城を構えて、その家臣小寺頼季が居城としていた。小寺氏は、御着城(姫路市)、さらに庄山城(姫路市)へと移る。が、享禄3年(1530)政隆のとき、浦上村宗に攻められて敗死し、翌年村宗も討死。政隆の子、則職は御着城へ移り、則職の家老黒田重隆が天文14年(1545)執事道慶に代わって姫路城へ入った。重隆の孫は、黒田官兵衛孝高(如水)である。

官兵衛は、小寺家に信長につくよう説得し、信長の命を受けた秀吉が播磨征伐に下ってきたとき、尖兵となって大いに活躍した。

秀吉の播磨征伐は、天正8年(1577)に終わり、信長は恩賞として播磨を与える。秀吉は姫路城を居城として、天守閣を建てた。その後、城主は羽柴秀長、木下家定と続くが、秀吉没後の慶長5年(1600)9月、関ヶ原の合戦が起こる。

このとき、東軍についた池田輝政は、その功により播磨52万石を与えられて、入封。輝政は、家康の次女督姫を妻としていたこともあり、姫路城移封は、大坂城を監視し、時きたらば先鋒となる役目も担っていた。

輝政は、早速築城準備を始める。普請奉行は筆頭家老伊木忠繁、大工棟梁は桜井源兵衛。

完成したのは9年後の、慶長14年(1609)。城下町全体をとりこむ惣郭を構え、五層七階の天守をもった壮麗な城となった。

だが、大坂城が落城すると、当時の城主池田光政(輝政の孫)は、幼少だったため、因幡・伯耆へ転封となる。池田氏の後は、本多忠政(忠勝の子)が15万石で加増転封。忠政の子、忠刻は、大坂の陣で武功を立て、さらに豊臣秀頼へ嫁いでいた徳川秀忠の長女、千姫を妻としていた。このため、忠刻の部屋住み料として、15万石に加え、10万石(千姫入輿の化粧料)が与えられ、計25万石の大名となる。

忠政は、忠刻と千姫のために西の丸や三の丸館などを整え、姫路城は現在の姿になる。

本多氏の後、城主は松平氏、榊原氏(このときの政岑という人が面白い人だったらしい)、酒井氏などへと代わり、酒井氏のときに明治を迎えた。

 

■交通

JR 姫路駅から徒歩15分

中国自動車道「福崎」から播但連絡道「砥堀」を経て国道312号線を姫路市街へ

駐車場あり(有料)

入城時間 9:00〜17:00(入城は16:00まで) 6月から8月は18:00(入城は17:00)まで

休城日 12月29日〜31日

城内を見て周るには1時間半以上かかります。